「男たちの知らない女 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの二つの生涯 1 2」をようやく読み終えた

 昨年(2025 年) 12 月刊行予定というのを見て買おうと決めていたものの、なかなか発売にならないままに延期になり、2026 年 2 月刊行と決まったものの「さて、どうなのだろう」とやや心配していたが、無事に刊行されたので購入した。国書刊行会さんということもあってか、どうも取次ですら在庫を置いてくれないのかという感じでなかなか難儀をしたのだった。

 さて、ティプトリーについては、邦訳の文庫がハヤカワ文庫から刊行されてまもないころに知っていて「愛はさだめ、さだめは死」であるとか「たったひとつの冴えたやりかた」であるとか購入して読んでいたのだけれど、正直当時はティプトリーの素性に関するあれこれについてはまったく知らずにいた。のちに女性が男性名で発表し、ずっと素性を隠していたというはなしは、どこかで見聞きしたように思う。それ以上のことは、知らなかったので今回読んでみたいと思っていた。

 2巻 800 ページあまりという大部なのもあって時間がかかってしまった。冬場の読書はなかなか進まない。

 子供時代のアリ(ス)・シェルドンは(アリスが正式名称だが、それは母親メアリーに由来するものでもあり本人は嫌っていたために「アリ」と称していたらしい)、両親に連れられてアフリカ探検にでかけるなど、まあ裕福な家庭で稀なる体験を重ねて育った。一方で、その特異な家庭環境もあって精神にやや障害を生じており、その鬱症状に生涯悩まされることとなった。

 はじめから小説家になろうとしていたわけではなく、むしろ絵画に興味を持ち、いくばくかの才能も披歴した。美術関係の評論などを書くこともあった。そうした果てに女性だけの部隊創設に応募して軍人となり、大戦にも参加。イギリスでふたりめの夫となるシェルドンと出会い、彼の猛烈なアタックで結婚。その後、鶏卵の孵化工場を経営すれば楽して儲けることができるとふたりして生活の大転換をするも失敗。そうした経験もまた彼女の精神状態を揺さぶり時として大きく損ねる下地となったようだった。

 さらには軍所属時代に情報解析をしていた技能を生かすべく、夫ともども CIA に勤務(夫が先に招聘され、アリは後に)することになるなど、たしかに後の「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」という人物像を形作る素地がさまざまな経歴から補強されていった。

 そうした過程をつぶさに知ることのできるという点で、確かに本書は貴重だ。また、多くの作家、編集者、家族、友人、知人とやりとりした書簡や、直接のインタビューなどから構成されるという点でもなかなか稀有な一冊。

 しかし、文通を増やしすぎたこともまたティプトリーの素性を探られる一因ともなって、著名だった母親の死亡記事を発端としてまたたくまに素性が世間の知るところとなっていく様は、いささか気の毒にも思える。そうして、「実は女性であったのだ」ということが暴露されてから一部世間の目と意識は明らかに変わったのだろう。もちろん、深くかかわった文通相手、作家仲間からは、以前と変わらない友情を得てはいたものの、それすらも疑心暗鬼にとらえることしかできないアリがいたのも事実なようだ。

 素性が割れて以降(1976 年以降)、執筆はうまくいかなくなる。書けないうえに、たとえ書けても以前のような冴えがない。そうして数年は執筆を止めたりしての生活。さらにはそもそも書き始めたのが 51 歳のころであり、 60 歳をすぎて年長の夫はしだいに体の衰えを見せる。鬱症状も時折悪化してついには、これ以上生きられないと判断したらふたりで自殺しようという取り決めまでするにいたる。

 鬱症状に関係して若いころから数々の薬剤を服用していた事実も明かされる。ほとんど薬物中毒のような状況にも見え、さながらフィリップ・K・ディックの生きざまを思わせるよう。事実、ディックとも手紙のやりとりをしていたようだ。だが、ディックについても詳しく知るわけではないが、よほどアリのそれのほうが壮絶で絶望的だったのではないかと読んでいてこちらがいたたまれなくなるくらいだ。

 そして、ついに一度は警察によって阻止された心中を果たし、アリはその生涯を終える。

 邦訳文庫がでたのは、そんな彼女が亡くなった年であったのだと知ると、なんとも不思議な気持ちになる。実のところ「たったひとつの」はあまり好きではない。よいとも思わない。日本の世間としては、かなり評価が高いわけだが、どうにも面白くはなかった。方程式ものとしてもどうなのだろうと。ただ、本書を読むと「たったひとつの」は素性が知れて後の本当に晩年になって書かれたものであり、そうしてみるとかつてのティプトリーらしい作品とはとうてい言えなかったのだろうということがわかると納得も行く。なぜ、日本では人気なのかといったら、まあ、国民性のなせる技なのだろう。

 作品リストを見ていると、まだ訳出されていないものもあるようで(特に長編とか)、いっそ発表順にまとめあげた全集でもどこかでやらないだろうかと思ったりもする。できれば、発表の名義も明示してほしい。

 訳について少し気になるのが、著名人の名前表記で、ル=グィンについて「アーシュラ・ル=グィン」と本文では書かれる。謝辞では「アーシュラ・K・ル=グィン」と書かれているのだが、本文中では「K」が省略されていて、なんとも気持ち悪いものを覚えた。いや、これは訳というよりは原文なのだろうが、どうも気になる。

 また、「アミーリア・エアハート」という名前が 1 P.77 にでてくるのだが、これは「Ameria Earhart」のことで、愛機エレクトラで消息不明なままとなっている女性飛行家「アメリア・イヤハート(エアハート)」のこと。世界的にもかなり著名な名前であるし、2000 年前後くらいまではいまだその消息を追っている人々もあったに聞く。日本においてもいくつかの本がだされており、その名前はほぼ安定しているはずなのだが、なぜ「アミーリア」と訳出されたのか、少々疑問には思う。(ラスト・フライト:つらつらぐさ)(ふくやまけいこ著「エリス&アメリア」の名前の由来となった名前でもある)

 やはり、きちんとした全集が国書刊行会さんあたりから出版されるのを、期待したい。

男たちの知らない女 Ⅰジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの二つの生涯

 

 

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「昭和史 戦後篇 1945>>1989」を、ようやく読んだ

 購入したのはずいぶんと前かと思う。後回しにしていてすっかり遅くなった。著者の半藤一利さんも亡くなられてしまったのでこの機会にと読み終えた。

 戦前篇についてもそうだけれど、学校の歴史の授業でも近現代史になると時間が足りないから「あとは教科書を読んでおくように」くらいにしかいわれず、結局きちんと学ぶこともないままに過ぎていたのが自分たちの時代。今もそうなのかは知らないけれど、おそらくはそう変わっていないのではないかと想像はされる。

 どこかの国のようにことさらに自国をほめそやし、特定の他国を貶めたり反感をもたせるような教育を充実させているようなことよりはよいのかもしれないけれど、そうしたことすら知らないままに過ごして逆にその国のプロパガンダを信じるにいたるケースも見られるような近年では、やはりきちんと学ぶことは必要なのではないかなとは思う。

 もちろん、ここで書かれたことだけがすべてで、正しいという保証はないと思うほうがよいのかもしれないし、少なくともそのくらいの気持ちで読んでおくべきかもしれない。より多くの信頼に足る情報を得て自分の判断をする。とはいえ、この本は一定の信頼に値すると個人的には思っているが、まあ、そう思いたくない人の存在というのもある。だからこそ、余計にこうした本にも触れておく必要はあるのだと。

 戦後篇だけに敗戦後の処理のあれこれなどが各種資料や証言などをもとに検証されていてよい。そして、昨今の日本や世界がどんどんそうした邪な世界になりつつあるようでよろしくないという恐怖も感じる。

 講演録の文字起こしということのようなので、平易な語り口も相まって比較的読みやすく接しやすい書物といえるので、昭和史の入門としては好適な一冊なのではないかなと。

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

 

 

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「ライト、ついてますか 問題発見の人間学」をようやく読んだ

 発売当初から目にしていて、噂も聞いていて、気にはなっていたものの読まずにいたのでようやく買って読んでみた。ただ、そこまで絶賛されるのにはあまり共感しなかった。

 どうにも古いアメリカンジョークやコメディの調子が全体を貫かれていて、それが癇に障るというのはある。アメリカ人というのはどうしてそういうネタを面白いと思うのだろう、というくらいにどうもしっくりしない。いわゆる欧米のスタンドアップコメディというのが嫌いだというのにも似ている。

 また、どうにもはっきりと書かずにあいまいなままに書かれていてすっきりしない。強調される文言がいまひとつ響かない。表題にもなっている「ライト、ついてますか?」くらいはよいのだが、ほかはどうにもすっきりしない部分が多い。いや、わかる。わかるのだが、すっきりしない。しっくりこない。全体として古すぎるというのはあるのかもしれない。あるいは、日本的なものとして翻案しなおしたほうがよいのかもしれない。ついでにイラストも。

 というわけで、個人的には、いまさら無理して読まなくてもよいのではないかなという印象。申し訳ないけれど。

 

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「パピルスの中の永遠 書物の歴史の物語」を読むことをやめた

 わたしは書物という形態の歴史について読みたかったのであって、「ホメロス」とか「イリアス」とかが書かれたころの世間とか作者の日常とかを妄想した長大なエッセイを読みたかったわけではないのだ。

 ということで我慢して半ばまでは読んだがついに本を閉じた。

 パピルスから書籍の形態に変遷する過程でなにがあったのか、古くは収蔵に鞄が使われていた時代とは何であったのかとかそういう書物の歴史が読みたかったのだ。古の書物の書かれた時代を妄想するエッセイではないのだよ。

 

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「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家  サハリン少数民族ウイルタと「出会う」」を(ざっと)読んだ

 新聞の書評欄で見かけたのだったか、はたまたなにかのツイートとかだったのか、今となってはさだかに覚えていないのだけれど、ジャッカ・ドフニということばに遠い記憶を呼び覚まされたので気になっていた。40 年あまり前に網走でたしかにその名称を見かけた覚えがあるし、三角錐型のテントにもなんとなく覚えがあったからだ。

 当時の自分はそこまで関心がなかったので資料館にはいるということもなく、あるいは近くには行っていないのかもしれない(看板とかを見ただけだったかもしれない)。ただ、今となってはなんとも惜しいことをしたなと思う。すでに無くなってしまったというので。

 サハリンはもと日本の領土となっていた土地。もちろん、住んでいたのはそこで生きていた民族の人々なので、勝手に日本領にされてしまっただけという面は否めないのだろう。当時のソ連とのいろいろがあって、北海道へ移り住んだ人々であったりの記録。数奇な運命の末に、いまでは絶滅してしまったともいえるようだ。

 そんなウイルタという少数民族の生活や文化の品々を集めていた資料館。運営が厳しくなって 21 世紀になって廃館したという。収蔵していた品々は道立の民族資料館に移管されたということだが、縁あって昨年 2024 年の 3 月から 8 月にかけて髙島屋史料館 TOKYO で展示会が開かれていたのだという。そのパンフレットというか記録というかを兼ねた書籍が本書。

 ウイルタを含むサハリンと少数民族との歴史であったり、北海道へ移り住んだ人々、そして資料館を開くにいたった経緯などが記されており、知らずにいた歴史の一端をみることになった。数々の品々はいかにも北方民族のそれであるが、今となっては貴重な資料。どうして、あの時に訪ねておかなかったのかと悔やまれる。

 本書にしても小さな個人出版社ということもあって、今後の増刷とかはなかなか厳しいのではないかと思うので、手に入るうちにと早々に入手した。

 往々にして無くしてからその重要性に気づくというものだけれど、せめて、今できることを。

ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家  サハリン少数民族ウイルタと「出会う」

 

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「ぱふの記憶」を読んだ(買った)

 どうやらコミティアの発端には雑誌「ぱふ」がかかわっていたらしい。などということは知らなくて、当時友人から知った漫画専門誌というくらいしか認識はなかった。気が付いたら目にしなくなっていて、かわりに「ふゅーじょんぷろだくと」とか「コミックボックス」とかだったかを見かけるようになって、さてその後はどうだったか。

 大判になったというのは、どこかで見かけた記憶はある。とはいえ、その程度の認識。かつて、いろんな情報やら作家特集やらでいろいろ重宝したのだったなあという思い出がかすかに。

 そんな「ぱふ」の記念誌的なものがでたのだと さべあ さんのツイートで知り、調べてみるとどうもこれは今買わないとすぐに入手不可になるなという感じなので速攻注文した。アマゾンでさえ扱いはなく書泉さんだけ。それでも問題なく注文できたのでよかった。しかも、迅速な処理で届けられたのでとてもよかった。

 さべあさんはじめ関係していた方々のメッセージで振り返る「ぱふ」の思い出と現状といった感じのもの。いち読者でしかなかった(しかもかなり古い時代だけ)というところでは、さほど感慨がということではないけれど、かつての賑わいをなんとなく感じさせてくれて過ぎし日の得も言われぬ雰囲気というのを思い出させる。あのころは総じてそういうゆるやかな時代だったなあと。

 どうやら手元には「ぱふ」は一冊しかないようで、山田ミネコ特集号だけ。たしか友人に見せてもらったやつで「ふくやまジックヴック」を知ったけれど(実物も見せてもらった)、すでに入手不可だったかいまだ入手できず。復刊の見込みもないようでとても残念。余談。

 むかしを懐かしむようになっては、つまり年を取ったということなのだなあ。

 

 

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「アンネナプキンの社会史」を(ようやく)読んだ

 出版された当時のおよそ 30 年あまり前にチェックしていたのだけれど、結局読むことなくきていた一冊。当時、おそらくは本の雑誌あたりで見かけたのだったか、それとも別のところだったのか、いずれにしてもちょっと興味をひかれたものの単行本はいささか値段があるのもあったりで結局そのままになってしまった。そのうち忘れてしまって今にいたり、たまたま調べたら単行本はすでに絶版。文庫がでているということだったけれど、こちらも事実上の絶版。古書に頼るしかなくなってしまった。

 ということで、古書があるというので、ではこの機会にと買ってようやくにして読んだ。

 そもそも、生理的な機能として必要不可欠なものなので、太古から月の処理というのはどうしていたのかという純粋な興味はあるものの、さすがにこうしたことの確かな記録というのはそう多くはなさそうにも思うし、事実そこまで多くはないのではないかと。

 ただ、読んでみると以外とそうした記録が見つかってはいるようで、少なくとも衣服を身につけるような生活になってからという時代においては、ある程度推測ができるように読めた。たいていの場合は、紙であるとかやや高価にはなるが綿などをまるめておしこんでおく、という今で言えばタンポン的な処置の仕方というのが、やや一般的だったように書かれている。本当のところがどうかは、正直よくわからないとはいえるだろうけれど、一定程度そういうものではあったのだろうと納得もできる。

 昭和前後となってくるとやや事情は変わってきて、当時の女性にどうであったかを尋ねることはできたようで、この時代においてもどちらかというと似たような状況ではあったらしい。ナプキン的なものを当てるという方法もなくはなかったようだが、結局手軽さという点では詰めてしまうほうが主流だったかに読める。

 また、少なくとも母親が娘に対して秘め事のように一子相伝のように処置方法を伝え、それをまた我が娘に伝えるということが行われていて、あまり一般的におおっぴらにされるということが少なかったということもうかがえる。

 それらに変化が生じたのが、昭和になって誕生したアンネ社のアンネナプキンという製品の登場。新聞広告も大きく打ち出し、その宣伝の妙もあって瞬く間にヒット商品となったらしい。実際、昭和の少女漫画であるとか、あるいはコバルト的な少女小説の世界などでも月経のことをアンネと呼ぶ流れがいつしか定着していたように思うし、月経用ナプキンの総称としてアンネナプキンという言葉が広く知られたようにも思う。実際には、海外の高価だがいまひとつ使いにくかった製品からあらたな発想をもって日本で開発された製品。その後、数社で類似のものが誕生する運びになったようでもある。それまではいわゆる T 字帯とかが使われていたらしいが、やはり高価なのと使いにくいのが難だったともある。

 けれども、アンネ社の勢いも長くは続かずにわりと短命で終わってしまう。そうして、なお、名前だけは一般名詞としてなぜか残っていったという感じ。もちろん、今ではもはやそういう名前も若い世代などには知られないものかとは思うけれど。

 文庫化にあたり、近年(21 世紀)の補足がついているので、それもまたなかなかに有益。現在ではあたりまえに売られていて使われているアンネナプキンだが、その登場はたかだか数十年でしかないのだという事実に少し驚愕を覚えたりもする。

 どうやら近年ほぼパクリかと思うようなタイトルで別書籍が刊行されているようだが、はたしてそちらはどのようなものなのか、いずれ機会があれば確認してみたい。

 

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「うつりゆく日本語をよむ ことばが壊れる前に」を読んだ

 ことばは変化するものではあるので時代を経てその意味合いや使われ方に変化が生じることは避けられない。

 そういう視点の上でなお、さすがにこうした使われ方は現状においてはどうだろうか? という気づきを忘れてはいけないのではないかという一連の提案。

 ことに新聞やテレビといったメディアでのことば使いがどうにも安易すぎるあたり。もちろんそれはおおやけの目につきやすいからというのもある。

 また、ことばには「書きことば」「話しことば」といった違いがあり、それぞれの特徴、状況といったことによってその意味あいが異なることにも着目。

 会話の場合には、お互いに話す内容についての共通認識というものが必要となるが、仮にどうも勘違いしているなと思えば、その時点で確認してただすことが可能であるのに対して、書きことばの場合には書かれているものがすべてであるので、そうした共通認識が得られるような書かれ方、ことば選びというものが必要となる。

 ところが昨今は「書きことば」に「話しことば」が進出することがふえていて、そうした共通認識をまったく考慮しない例が増えてきているのではないかと。実際、なんど読んでも意味をくみとれない文章というものが増えている印象はある。

 書きことばはややまどろっこしさがある。けれどそれを排除して話しことばだけにしては、のちのちの世にことばを伝えることも難しくなるとも。

 古文書が読解できるのは、そうした共通認識的な書きことばというものがあるからであって、話しことばだけで書かれてしまっては、それはもはや長く残されることも理解されることもなくなってしまうのではなかろうかと。

 近年は話ことばで書かれた文学というものも増えているけれど、そうしたものはおそらく 50 年 100 年後に読まれるたときに、読みにくく、意味の理解が難しくなっている可能性はたしかに高いのではなかろうか。

 そこへ近年「打ちことば」が登場して状況はますます混迷を増す。

 変化そのものは受容すべきではあるが、それはまた時と場合による使い分けを求められるということに過ぎないのではないか。そこをおろそかにしてしまうと本質的なことばの意味を失ってしまうのではないかと。

 大切な気付きを与えてくれる一冊。

 

うつりゆく日本語をよむ: ことばが壊れる前に (岩波新書 新赤版 1907)

 

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「数学者たちの黒板」を読んで(眺めて)いる

 新聞の書評欄にでていたのでチェックしていたら、松崎有理さんもおすすめされていたので、ついつい買ってしまった。この手は案外初版で終わるパターン。

 横長判型なのでさながら絵本のような扱いなので、そのあたりは少し不便に感じなくもないけれど、黒板写真をページにすっきり収めるためには致し方ない。そう、数学者たちの書いた黒板の写真ばかり集めた本。それぞれの内容などについて簡単な文章も寄せてもらっているので、まあ、門外漢にとってはそれを読むのが面白いというところ。板書の内容などほぼわからない。

 トポロジー方面の図形とか書かれたものならば、多少は理解できるところもあるけれど、数式ばかり書かれているものはとなりの文章を読んでも、「これがそういうことを表しているというのか」と目が点になるばかり。

 とはいえ、実にさまざまな数学者たちの黒板の使い方、黒板というものへの思いというのはほぼ共通していて、さらに日本産の今は亡きチョークをこよなく愛していたことにも何人もが言及していて、うれしくも悲しくもある。

 また、多くの黒板が実に全体に白いというのも特徴的。きっとアイデアが浮かぶにまかせてとにかく書き連ねたいという意識が、いちいち丁寧に消してなどいられるかとばかりにざっくりと文字さえ消えれば問題ないと、あるいは手で消しているのかもしれない。そんな、真っ白な黒板に書かれた文字の列はなんとも不思議な感覚になる。

 ホワイトボードでは黒板と似て非なるもので代用にはならないらしいが、黒くもないのに黒板というのも嫌だという数学者もいて、それはそれで面白い。最新のものが必ずしもよいわけではないというのは、どんな世界にもあるのだなと。

 

数学者たちの黒板

 

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「永遠平和のために」を(一応)読んだ

arton さんがなにかのツイートで触れていたので、どれどれと買って読んだ。薄い本だし。

正直な感想を言えば、なにを言いたいのかわからない、だ。

いや、わかる。わかるのだけれど、わからない。

章題はわかる。簡潔に書かれているので。なるほどそういうことをこれから縷々展開させるのだな、とは思いつつ読むのだけれど、小難しい用語を羅列するばかりで一向に頭にはいってこない。

訳者が末尾の解説最後に「読者には解説より本文を熟読されることを希望する」と書かれているのだけれど、さすがにこれはという感じも。

あ、E テレの「100 分 de 名著」でやってくれてもいい。いや、すでにやっていたりしたろうか? (やっていたらしい。たぶん見てはいるはず。なんということだ)

なんにせよ、論点としては至極まっとうな簡潔なことではあると思うので、時間を少しおいてまた再読するとしましょうか。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

 

NHK「100分de名著」ブックス カント 永遠平和のために: 悪を克服する哲学 (NHK「100分 de 名著」ブックス)

 

 

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