螢日和 その1
ゴトンと音をたてて列車が止まった。
ぼくは、読みかけの文庫本をとじるとあわてて列車を降りた。ホームには買物袋をさげたおばさん達が並んでいた。土曜日の午後とあってあちこちに学生達の姿も見える。
やがて、発車のベルが鳴り列車は静かに動き出した。
その時になって、ぼくはなぜ降りてしまったのだろうと少し後悔した。
用事があるわけではなかったし、だいたいどこの駅かも知らずに降りてしまったのだ。乗っていた時間を考えてみると、歩いて帰れるほど近い駅とは思えなかった。まったくなんで降りてしまったんだろう。特急や急行にわざわざ乗るつもりはなかったので、次の列車までは大分時間があるだろう。とりあえず時刻を確かめてひと息いれよう。
ぼくは小さくため息をつくと、改札に向かった。
幸いなことにそこは松本駅だった。改札を抜けたぼくは、ほっとしていた。松本ならまず列車に不自由はしないだろうし、待ち時間も退屈することはない。
長野行きの列車を見る。普通列車は二時間ほど待たなければない。急ぎというわけでもないのでその列車に乗ることにしてぼくは駅ビルの書店に入った。手持ちの本もあったが、本屋を覗くのは時間つぶしにうってつけだ。
しばらくあれこれ物色した後、改札前の広いフロアーに置かれた椅子に腰掛け、ぼくはぼんやりと螢のことなど考えていた。
いったい、いつごろからなのだろう。螢が日常的に見られなくなったのは。
ぼくはその日辰野町へ行ってきた。螢に会いにだ。けれど、少し早かったらしく、ぼくは来週あらためて訪れることにして辰野を発った。辰野町では、今ではほとんど見られなくなった螢を大切に守っている。しかも、そのことを同じ県に住んでいるぼくらでさえ、あまり知らない。そんなひっそりとした趣がぼくを辰野へ誘ったようだった。
ふと、目の前の人混みに気づき、ぼくはその喧噪の中にいたことを思い出す。
時代というものなのだろうか。
あわただしく、せわしなく移ろっていく人々は日々の疲れに押し流され、螢のような小さな虫のことになど目を留めようともしない。
いや、それが自然なのかもしれない。
ぼくは、行き交う人々の姿を見るともなく眺めていた。
あの人達はどんな事を考えながら歩いているのだろう。
アタッシュケースを下げてせかせかと歩く人。大きな荷物を引きずるようにして改札へ急ぐ人。あたりをきょろきょろと見回しながら、どこへ行くともなくうろうろしている人。明るい屈託のない笑顔で話をしている若者。なにやらむずかしい顔で話をしているサラリーマン。その奥で不思議そうな表情でそのサラリーマンを見上げている少女。
向かいの椅子にかけている少女の前でふたりのサラリーマンが話していた。
まだ高校生ぐらいだろうか。小柄な感じの少女はギターケースを大事そうに手で支えていた。
やがて彼らは彼女の前を去り、しばらくその場できょとんとしていた彼女は、つと立ち上がると公衆電話のある方へ歩いて行った。
コインをいれてボタンを押していく。
二言三言話して受話器をもどす。
誰かを待っていたらしい。けれども、どうやらこないようだった。
ぼくは時間など忘れて少女の動きをおっていた。飛び抜けて可愛いというわけでもないが、不思議な力に誘われるように彼女を見ていた。
しばらくして彼女はまた立ち上がると、荷物をもって今度は改札へ歩きだした。
自然ぼくの体も椅子を離れ改札へと向かう。まだラッシュには早い夕方の駅はほどほどの混みぐあいだった。
ぼくは彼女の姿を見失うことなく追って行った。
改札から一番遠いホームに降りていくと、そこに止まっていた二両編成の列車に彼女は乗り込んだ。
ぼくもそれに続く。
列車は学校帰りの学生や、買物帰りの主婦らで結構混んでいた。彼女はなかほどの席に座っていた。
動き出した列車は少なくとも長野行きではないようだった。見なれた景色が目に入る。西に傾いた陽は、それでもまだ夕焼けには早い。ほどなく列車は辰野へ着いた。
学生がぞろぞろと降りていく。少女もその後からゆっくりとステップを降りる。
うっすらと色を染め始めた西の空は、低く広がる薄雲に朱色を移し陽は沈もうとしていた。
少女はホームにたたずんで、そんな空を見つめている。
梅雨時にしてはおだやかだった一日の静かな夕空だった。
沈み出した陽は早い。気がつけばもうほとんどが山なみに消えて見えない。
あたりにはもう人影もなく、列車も既にホームにはいない。
ひとり、少女は改札へ向かい駅を出ようとしていた。ぼくはポケットを探った。そうして切符を買っていないことに気づいた。
改札で料金を払ってあわてて駅を飛びだし、彼女の姿を探す。
意外にも彼女はすぐ外でまた空を見上げていた。夕日の沈んだあたりから左上の方に明るい星がひとつ輝いていた。
その明るさ、ゆるぎない光は見事だった。ぼくはしばし言葉を忘れてその星を見つめていた。
「きれいだなあ」
思わず言葉が口をついていた。
と、少女が振り返り、不思議そうな表情をぼくにむけた。
「いや、あの明るい星、何だろうって……」
自分でも不思議だった。見ず知らずの女の子にむかってなにを話しかけているんだろう。
「あの……」
ぼくは妙にあわてていた。
「金星よ。宵の明星」
「そうか。金星か」
どぎまぎしながら、ぼくはやりばのない視線を金星にむけていた。少女はじっとぼくを見つめている。
「お茶でも飲みませんか? あたしおごりますから」
「えっ?」
ぼくは何事かと思った。
「おごるだなんてとんでもない。ぼくが……」
少女はくすくすと笑いだした。ぼくはからかわれているような気がした。そして次第に自分の言葉が妙におかしくなってきて、ぼくも笑い出してしまった。まんざら悪い気分でもなかった。
1.4.01-1
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