「印(サイン)」を読んだ

 リストに入れていたのだけれど後回しにしつづけてようやく。最近の作品はちょっと面白みが半減してきたかなという印象もあったりはしたのでそういうのもあるのか。あるいは、毎度アイスランドの冷たく、ジメッとした世界の寒々しい物語が続くので、この季節にはちょっとなあという気分もあったりする。

 今作はちょっと経路が異なる。これまでだと一応きちんとした事件捜査という面があるのだが、今回は正式なものではなく、過去の事件との関連から個人的に気になってあれこれ調べてしまうという展開。発端は、ある女性の自殺とおぼしき現場。状況的にどう見ても自殺であることには違いないようで、ただ、そこにわずかの違和感が発生してきてなんとはなしにともかく確認作業を進めていく。

 なのでなかなか物語の核心は進展がない。例によって離婚して別居している子供がやってきて喧嘩になったり、わかれた妻と会って話をしろと娘にせっつかれたり、と家庭環境のもろもろが随所についてまわる。

 そこへもってきて 30 年前の失踪事件。あくまでも個人的な趣味で捜査ではなく調査を進めるのもあって、最後は超法規的措置といった感じにもなり、警察官としての一線を越えてしまうのかと思わせるが。

 で、真相はどうだったのかというとややあいまいで終わってしまう。そこは、少し物足りない。あくまでも私的に調べているだけで、きちんとした証拠があるでもない。けれど放置するにも落ち着かない。

 唯一、30 年前の失踪事件だけが、きちんとした解明を見て、穏やかな心地にさせてはくれるのだが、時すでに遅し。いつも、アイスランドの事件は寒い風が吹いている。

 ただ、「湿地」のときのような見事さは次第に失われてきている感はあって、そのあたりが次作以降を継続しようかどうかと少し迷わせるところではあるのだよなあ。

 

 

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「風に散る煙 (上・下) 修道女フィデルマシリーズ 10」を読んだ

 新刊案内とかでチェックして honto の欲しいものリストにいれていたのに、春から honto が電子書籍のみの扱いになってからというものまったくそのあたりのリマインドが機能しなくなってすっかり忘れていた。発売から三カ月あまりも経過してから気づいたのであわてて購入した。

 相変わらずのフィデルマとエイダルフではあるのだが、寄り道の寄り道で少しお互いの気持ちがぎくしゃくしていたりもしてそのあたりもまた面白い。フィデルマ貞操の危機もおとずれたりしてすわいち大事かという場面もあったりなかなかハラハラさせる。

 毎度ながら科学捜査なんていっさいないので捜査は遅々として進まない。従来にもまして進まない。ごくごく断片的な事実があるだけでそれらをまとめるキーがなかなかないままに結末という感じが今作。

 いよいよ謎解きがなされていくのだが、どうもいきなり感が今回は強くていまひとつしっくりこない感じもあった。いや、確かにそういうフラグはあった。あったものの、そこまでつながるような確証はなかったようなと思うことが多く、推論で結論を出してはダメなのではないか、フィデルマよ、とか思ってしまう。

 とはいえ、読み応えがあるのは確かで、特にその訳文のうまさもあってぐいぐいと引き込まれていくので気づけばページが進んでいるという読書体験はなかなか楽しい。こういう素地というものがやはり必要なのだろうなとあらためて思う。昨今の SNS でのなにを言いたいのかよくわからない文章の羅列は、スマホという狭い画面での入力が故とか、予測変換が故の誤変換ママとかもあろうけれど、それ以前によい文章というもののたくわえが自身にないということも大きいのではなかろうか、などと愚考する次第。

 なんにせよ、ようやく旅に戻ったふたりだが、どうも先の予定も波瀾万丈らしい。作者はすでに 80 前後らしく、さて、どこまでフィデルマとつきあえるのかということもまた関心事になりつつあるのかもしれない。ちゃんとしてスタッフで映像化されてくれないか、という期待もあるものの、そんなことはしないほうがよいのかもしれないという不安もまた大きい近年か。

 次は短編集らしい。しばらくまた時間があくのか。楽しみに待つしかない。

 

 

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「厳寒の町」読んだ

 ようやく文庫の最新に追いついたアイスランドミステリ。しかし、正直なところ今回はあまり好ましくはない。

 というのも事件の背景になる社会問題が重く描かれてきたにもかかわらず、どうにもそれとは関係のない結末が終盤も終盤になってふいに現れるというような展開で、これまではいったいなんだったのだと思えてしまうから。

 さらには、事件に絡むのかといういくつかの問題がでてくるものの、ほぼあやふやなままメインの物語が終わってしまい(それも唐突だが)、あれはいったいなんだったのだ、と。

 次回作への布石、ということもあるのかもしれないものの、どうにもしっくりこない、すっきりしない。ただただ、凍てつく寒さだけが強調された作品だったなあというのが素直な感想。

 やたらとエリンボルクら捜査チームといさかいのような展開が増えるし、それもどうにも違和感が強くてよろしくない。うーむ。素直にいえば別人が書いたのでは、と思えるくらい。

 当初のあの勢いはどこへ行ってしまったのか。重厚な物語の展開。畳みかけてくる迫力はどこへ行ってしまったのか。どうも今作はこれまでと違って過去からつながるという展開のない作品だったがゆえに印象が悪いのではともいえるが、やはり別人が書いたのではないかなあ。

 次作以降もこうならばそろろそ見切るかもしれない。

 

厳寒の町 (創元推理文庫 M イ 7-5)

 

 

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「昏き聖母」を読んだ

 フィデルマシリーズ新作。今回は発売からさほどたたないうちに読むことになった。読み始めたらあっという間に読み終えた。もはや年寄にとって読書も疲れるのでどうしても時間をかけてゆっくりになるのだけれど、これはついついページを繰る手が止まらないという類の作品で、いつもよりもやや早いペース(とはいえ、早い人とは比べものにならないほどには遅い)で読んでしまった。

 フィデルマの相棒ともいえるエイダルフが、少女強姦殺害の罪を負わされて、しかもあろうことか、本来はない死刑制度をとっとと適用してしまおうとする一派が教会内の実権を握っており、かけつけたフィデルマにしてもこれという有力な手をうつこともかなわないままに物語が進んでいく。もどかしい。

 気づけばフィデルマと一緒に慟哭し、歯ぎしりし(いや、フィデルマはしないけれど)、いらだたしさに落ち着かない。そんな読書。健康にはよくないか。

 が、下巻に進むころには急に潮目が変わり始め、とはいえそれは決してエイダルフに有利にではなくむしろ逆に不利ともいえる展開で、いっそうフィデルマの仕事を困難にもする。作者は今回少々やりすぎたのではないか、と心配するくらいに。

 事実、本当の本当に終盤、ページ数でいって終わりまで 20 ページくらいまで明かりの見えない感じの展開が続く。それがボラーンの登場で一変し急転直下とでもいうべき大団円を迎えるあたりは、ちょっと無理が大きかったかという印象はぬぐえない。

 まあ、フィデルマシリーズではどうしてもそういう傾向はあるのだけれど(時代設定による制約もあり)、それにしてもという感じになってしまって謎解きがあまり納得感のある証拠の登場なく終わってしまった印象。

 とはいえ、ようやく己の心に素直になれたふたりの行く手には、まだまだ暗雲がたれこめているようで、読者を楽しませこそすれ、ふたりにはとんだ試練であることよ、と同情したくもなる。

 昨今でも死刑制度についての議論はあるし、この作品世界のいう法もたしかに望ましいものなのではないかと思わざるを得ない。自らが性急に裁可を下したエイダルフの死刑についての再審議に異を唱える若き王フィーナマルに対してボラーンのいう言葉が重い。

「その者が死んでから誤りを正すよりも、生きているうちに事態を調査し、誤りを正すほうがよかろうて」(下巻 P.225)

 田村さんの訳も実によくて、わかりやすく流れるような描写。映像が浮かんでくるかのようで本当にありがたい。次も楽しみだ。

 

昏き聖母 上 (創元推理文庫)

 

 

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「湖の男」(インドリダソン)読んだ

ようやく邦訳四冊目の「湖の男」。本文が 480 ページあまりあるというのに、あれよあれよと読み終えてしまった。主に寝る前読書なのでそれなりに日数はかかったのだが、それでもすいすいと進んだし、最後の 100 ページあまりは結末が気になって時間延長して読んでしまったくらい。

大戦後の東ドイツでの留学生たちの日常と、原因は不明だが水がひいてしまって湖底が露呈した湖に見つかった白骨を追う物語が交互に語られる。白骨はロシア製の暗号機にくくりつけられていた。不可解な事件はいつもエーレンデュルの手に回ってくる。

当時の失踪者をあたっていくが、なかなか決め手にかける。が、不可解な失踪状況の男が浮かび上がってくるが、当時の捜査担当者が事なかれ主義であったのもあり、疑問はいくつも浮かぶというのにおざなりにされてしまった形跡。

なぞのセールスマン。訪ねるはずだった農家に行っていない。なぜか車のホイールがひとつだけ無くなっている。結婚を約束していた女性は、その男のことを実はまったくといっていいほど知らなかった。謎の男。

一方で関係国大使館からは、当時のスパイ状況が少しずつあきらかになって、忽然と姿を消した男が浮かび上がる。はたして白骨はそのスパイなのか?

大戦後の東ドイツで学生たちに相互監視を行わせ、体制に抗する分子の排除に躍起となる秘密警察。そのさなかに生まれる愛と分かれと。

大方の読者が次第に実相を想像しつつ読み進めるも、さらなる展開に思わずうならされる。ああ、しかし、それはどうなったのだ? あれはどうなったのだ? と思わないではない。

じめっとした寒いこれからの季節に合うアイスランドの哀しい物語。

前作「声」は、やや倒錯した感じの内容で抵抗を覚える読者もいそうだけれど、本作はとにかくその見事なストーリーテリングに一気に引き込まれてどっと疲れること必至。エーレンデュル、これからどうなってしまうの?

すでに次作も文庫になっているのでまた買わなくては。

そうそう、不安材料としては訳者の柳沢由美子さんが 80 歳を超えていらっしゃる。同じテイストで引き継いでくださる方があるとよいのだが。いや、もちろん柳沢由美子さんにもまだまだがんばっていただきたい、むりのない範囲で。

 

 

湖の男 (創元推理文庫) 文庫

 

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「修道女フィデルマの采配」

発売からやや遅れて短編集を読み終えた。ひとつひとつが短いこともあるし、全体の長さとしても短めなので長編の分冊ひとつと比べてもやや薄い感じ。なので割とサクサクと読めてしまう。

一番好みなのは「狼だ!」。狼少年的なタイトルではあるけれど、当時の法制としての興味もなかなかなテーマ。事件の真相は察しがよければ途中で気づくとはいえ、やはり結末へいたる過程の面白さは秀逸。

わけても調査に赴いたところ誰もおらず、乳しぼりをされていない様子の牛を見つけると自分たちがまずやるべきことはこの牛たちのために乳しぼりをしてやることだといって実践するあたり。

「養い親」はやや後味が悪いが、それは事件の性質上どうしようもない。そしてまた、なかなかに現代社会にも通ずる深いテーマでもあって考えさせられるものがある。

「魚泥棒は誰だ」は少し趣をかえてややコミカルな結末が待っていて、それはそれでほほえましい。

「法廷推定相続人」は一番フィデルマシリーズらしい正統派な作品かもしれない。

「みずからの殺害を予言した占星術師」は、正直なところいちばんもやもやする作品ではある。

それでもバラエティー豊かという集まりなので、フィデルマシリーズ入門としてはいるのは、悪くはないかもしれない。

次は長編がくるだろうか。としても、さすがにそれだと時間が開きそうだ。再来年くらいになってしまうかな。それでも、楽しみに待とう。

 

 

修道女フィデルマの采配: 修道女フィデルマ短編集

 

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「憐れみをなす者」修道女フィデルマシリーズ長編(ピーター・トレメイン)

2021 年 2 月に刊行されていたのだけれど、ずるずると遅くなってようやく年末になって購入。久々のシリーズ長編。翻訳者の方が田村美佐子さんに変わっていて、ご年齢からすると引継ぎされたのかなくらいに思っていたのだけれど、あとがきを読むとすでに亡くなられてしまったらしいとわかった。

文章からするとおそらく前作のころから引継ぎを依頼されていてしばらくは助言などされていたのではないかという感じ。その途中で亡くなられたりもあって翻訳の進みがやや遅れたのかもしれない。

ただ、読んでみるといっさい翻訳者の変更を感じさせない雰囲気を出していて、田村さんとしてご苦労も多かったのではないかと思うと同時に、この先も同じようなテイストで楽しませてもらえるのかと思うと安心とうれしさと。

今作はほぼ巡礼団の船の中でだけ推移する物語で、特殊な密室ともいえてなかなか興味深い。船内での殺人、若き日のフィデルマの陥った恋の痛手などが絡んできてなかなかに読ませる。そして、手ごわい。フィデルマとて心穏やかではなく、調べは思うように進まない。かてて加えて海賊船の襲撃まで起こるにいたっては海洋冒険小説の様相まで呈してくる。なによりこの操船描写があまりにも丁寧で、そうとう当時の操船や海上交通事情といったものを調べているのだなと思わせる。

この中に確かに犯人はいる。ただ、それがなかなか解けない。さらには、フィデルマ自身も二度命を狙われる。あれもこれもとてんこ盛りというくらいのサスペンス要素で、昨今については知らないものの、テレビドラマの二時間サスペンスなど敵ではないというくらいの展開のすえにたどりつく結末も、崖っぷちでただ追い詰めるなどという代物では決してない。すべてのピースが合わさっていく快感は、やはり読まなくてはわからない。

しかも、結末の不穏さを残しておきながら、次なる翻訳は短編集ということでいじいじしてしまう。続きが気になってしまって夜しか眠れないではないですか!

田村美佐子さん、無理せず翻訳よろしくおねがいします。そして、故甲斐萬里江さん、どうぞ安らかに。すばらしい作品を紹介くださり、ありがとうございました。

 

 

憐れみをなす者 上 (創元推理文庫)

 

憐れみをなす者 下 (創元推理文庫)

 

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「声」(アーナルデュル・インドリダソン)

「緑衣の女」につづく邦訳三作目。460 ページあまりともっとも長い。

ホテルの地階に暮らす男性が下半身を露出した状態のふしだらな恰好で殺されているのが見つかるのが、クリスマスまであとわずかという時。ホテルの支配人は客には事件のことを知らせるな、営業妨害するなという姿勢で捜査にはあまり協力的ではない。そもそも、そういうことは可能なのだろうかとは思うが、日本でどうなのかも含めよくはわからない。国が違えばまた事情は違うのかもしれない。ともかくもそういう状況下で捜査は進む。

やがて、彼の子供時代のことが明らかになるにつれて、事件は児童ポルノとか、児童虐待とかいう方面に向かうかに見える。なかなか進展しない捜査のなかで少しずつ彼と彼をとりまく特殊な世界(コレクターなどなど)があきらかにはされていくが、読者としてもなかなか真相をしぼりきれない。

子供時代に歌唱のスターとあがめられたものの、少年期にいずれはおとずれる変声期によってあえなく夢は消える。父親の悲嘆、姉のろうばい、母の死。以降没交渉であったという彼ら親子になにがあったのかということもまた事件の真相にかかわりそうなのだが、これもまたなかなかに見えてこない。

そんなふうにして、最後の最後までいってから残り 20 ページでいきなり解決してしまう。一応それに理屈は通るので理解はできるし、納得もできる。とはいえ、いささか唐突でもあり、ここへきてそれか、という思いもあって、なんともやるせない。

正直、前作まではここまでということはなかったし、ある意味「そうきたか」という驚きをもって終焉を迎えたともいえるのだが、今作のそれは、あまりにもズルい。うーん。

物語のテーマもわかるし、納得はできるのだけれど、作品としては、どうにもいまひとつしっくりしないものを感じたままになってしまう。長すぎたのだ、というのが一番わかりやすい理由かもしれない。次作以降に期待。

声 エーレンデュル捜査官シリーズ (創元推理文庫)

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「緑衣の女」

「湿地」を読んで、その独特の世界観(とはいっても、それは実際のアイルランドの姿ではあるのだが)の中で、アイルランドであるがゆえになりたつというミステリに背筋を凍らされた記憶もいくぶんさめてきたところで、ようやくにして読んだ「緑衣の女」。購入だけはしてあったのだけれど、あれこれまとめて買いすぎていたのでなかなか追いつかない。いや、そもそも読むのが格段に遅くなっているのが一番の理由。

さて、「緑衣の女」。子供の誕生日パーティーを開いていたら赤ん坊が奇妙なものをしゃぶっているのを弟を迎えにきた大学生によって発見されることから物語がはじまる。それは「人骨」だった。

新しいものではなく相当昔のものと思われ、ひとまずは発掘して調べをすすめることにはなるのだが、考古学の専門家に依頼したところ丁寧な仕事により遅々として発掘はすすまない。やむなく現地の状況や歴史から調べをすすめていくのだが、昔の話でなかなかこれという事実があがってこない。

時を同じくして発生するエーレンデュルのもはや別居している娘からの「助けて」の電話。妻とはとうに別れ、成人している子供とも基本没交渉。妊娠しながらもドラッグにおぼれ、流産の危機に母ではなく父に助けを求めた。

そして、第三の展開。妻を人とも思わず暴力をふるう男。幼い子供を連れてなんとか逃げおおせたと思えば、行き先を探し出して連れ帰る。従わなければ子供を殺すぞと脅して。繰り返されるあまりにも凄惨な暴行描写。訳者は「これを翻訳出版してもよいのだろうか」と戸惑ったという。

読者としては、当然これら三つが織りなしていくであろう結末へと想像をめぐらしつつ読み進めることになるのだが、そこから想像される事件はなかなか簡単には終わらせてくれない。埋まっていた骨はいったい誰のものか。二転三転していく情報に読者もまた翻弄される。

私は暴力を憎む。()中でもドメスティック・バイオレンスは卑劣で、絶対にあってはならない重い犯罪です。()犯罪を告発するためとはいえ、警察や弁護士がその詳細を話させようとするのは残酷なことです。忌まわしい暴力を受けた女性に追い討ちをかけることになってしまうから。作家は犠牲者の女性たちに代わって、知り得た真実を書き切らなければならない。妥協せず、言葉を濁したり置き換えたりせず、書き切るのです。どれほど残酷なことかを描いて、けっしてしてはならないと訴えるのです。

(訳者あとがき から)

タイトルの意味するところであるとか、様々なことがしっくりと収まるには、なかなかじれったくも最後まで持ち切られるわけだが、ただただ引き延ばしたというわけではない隠し玉も重い。

もちろん、ではあれはどうなったのか、という点がないではないし、終わりが妙に唐突で、それでいて続く「声」の冒頭に続くということでもない。けれど、この独特のアイスランドという土地を舞台にした物語の異様な雰囲気には実によく似合う。読み終えたあと、しばらく放心する感覚をえる作品というのは、そう多くはないはずだ。

余談ながら不安に思うのは、訳者の柳沢由美子さんが 1943 年のお生まれということ。「フィデルマシリーズ」の翻訳をしていた甲斐萬里江さんはご高齢のためか、今般出版されたものからほかの方に交代されたようだ。このシリーズもいずれほかのかたに交代される可能性が高いのではと思うと、やや特殊な作品・土地ということを思うとよい方が現れてくれることを願うばかりなのだった。

緑衣の女

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「消えた修道士」

 本が好き! 経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 ミステリーの魅力といえばなんといってもそこで語られた事件・事象の謎が最終的に、時に見事に、解決される、その過程の面白さ。現代のそれであれば科学的な捜査といったものもあって、ある意味犯人にとって反論の余地のない結末となることも少なくない。科学の限界というのはあるにせよ、ホームズのころから、より科学的に、より論理的に推理していくという過程はひとつの醍醐味のようなものといえるかもしれない。

 そうした近現代を舞台としたミステリにたいしてフィデルマシリーズで描かれる世界はあまりにも非科学の世界。7 世紀中盤というキリスト教がようやくにして新約正典を確立したかというころを舞台としているだけに、まだまだ宗教的にも世情は流動的なところを持っていて、なにやらきな臭い匂いまでただよってきそうな、そんな世界。なにより、科学的な捜査などというものは基本ないのであるから、そこをどう捜査し、推理していくのか。そして、どう事件を解明していくかといえば、地道に事実を積み重ね、小さな齟齬や論理的な不整合を丁寧に分析していく、そんな作業。

 ある意味、それはより読者のところにおりてきて事件を見せてくれるともいえるのかもしれない。主人公フィデルマは時に謎に悩まされ、迷わされ、あるいは命の危機にもみまわれながらひとつひとつ事件を構成する欠片を拾い集めていく。読者もその作業を疑似体験しつつ、同じ条件で謎解きに挑むことも可能なのだ。

 今作ではフィデルマは久々に故国キャシェルで事件解決に奔走する。兄である国王コルグーにかけられた敵対する族長暗殺の疑惑をとかねばならない。ところが、当初でてくる事実は不利なものばかり。一方でそんなことがありえるはずがないということもまたよくよくわかっているだけに、その葛藤もまたしのばれるのだった。

 これまでの作品にないほどの危難にも出会う。狼の群れに襲われたり、村が襲撃されるのを目撃し人々が焼き討ちにあうのをただただ見ているしかないもどかしさ。ついには滞在中の修道院にまでその魔の手が及ぶのではないかという不安に襲われ、事実その危機にも直面することになる。村は破壊され、修道士にも死傷者が出てしまう。そんな中にあっても彼女の捜査に少しの揺らぎも生じない。

 そして、少しずつ明らかになっていく小さな事実と、複数の身内ともいえる人々の不可解な行動などもあって、はたして誰が信用に足り、誰があるいは裏切り者なのかと疑心暗鬼に満ちたなかでの捜査を強いられる。シリーズすべてを読んではいないものの、既読作品でもこれほどまで厳しい状況はなかったのではないか。

 およそ 700 ページに及ぼうかという作品の本当に最後の法廷にたどりつくまで、その真相はなかなか見えてこない。けれど、ある意味想像できた予定調和へと落ち着いていくともいえる。それはつまらないというのではなく、まさしくフィデルマシリーズらしい見事な結末へと導いてくれるのだ。ただ、やや最後が力尽きたように思えなくもないが、それでこの作品の評価が下げられるということではもちろんない。十二分にフィデルマの推理を堪能させてくれる。

 今作ではもうひとつ小さなテーマがときおり顔をのぞかせる。エピローグでそれは明らかに展開されるのだが、これまでの物語を思うと少し寂しさがあったりもする。いや、今後の展開でそれすらもまだ流動的なのかもしれないが、なかなか作者は簡単には物語をすすめてくれないらしい。いや、作者がではない。物語が語らせてくれないのだなとも。

 フィデルマシリーズファンであれば、今作はある意味シリーズのキーポイントとなる作品でもあるので、間違いなく読んでおくべき作品。訳者の甲斐さんの翻訳は本当にいつも素敵で、とくに「後じさり」と書いてくださるあたりに信頼がおけて実にうれしい。今後のフィデルマの活躍がますます気になってしまうので、早くも続編が待ち遠しい。

 最後にひとこと。エイダルフの莫迦!

でも、これらは、皆、事実です。となると、私たちが絶対に確かだと言い切れるのは、”我々は、何もわかっていない”ということだけですわ(上:P.206)
「いくつか、解釈はありますわ。でも、徒に推測してみても、何にもなりません。全ての事実を十分に把握する前に、あれこれ想像するのは、最悪のやり方です。私は、これまでずっと、そう言い続けていましたでしょ? そういうやり方は、自分の考えに都合よく事実を歪曲してしまう、ということですよ」(下:P.179)
ヘラクレイトスは、言っていますわ。”同じ川を、二度渡ることはできない。水は絶えることなく流れているのだから”と。”永遠”にあるのは、ただ”変化”だけなのですわ (下:P.337)


終盤の法廷ではブレホンのラモンと、フィデルマの師匠であるモラン師の名前がでてきて両者がごっちゃになりそうになる。一箇所だけ間違いがあったので、ご報告。

しかし、主席ブレホンのモランは、「笑いごとではありませんぞ」と、苛立たしげに、口をはさんだ。(下:P.314)

s/モラン/ラモン/

4488218202消えた修道士〈上〉 (創元推理文庫)
ピーター・トレメイン 甲斐 萬里江
東京創元社 2015-11-21

by G-Tools
4488218210消えた修道士〈下〉 (創元推理文庫)
ピーター・トレメイン 甲斐 萬里江
東京創元社 2015-11-21

by G-Tools

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