「大塚康生 道楽もの交遊記」をすでに読んでいた

 記録もれを。

 前作に続く二作目。大塚康生さんが残した数々の文章などをまとめたもの。今回は趣味のミリタリー関連のイラストなどもおおく収録されているし、そうした関連の話題なども多く、一作目とはまた違った形で興味深い。

 もちろん、アニメに関わりはじめたころのことなどについても、多少の重複はあるものの裏話がでてくるので、そういったところも面白い。

 日本アニメの黎明期の記録としてもこうしたものはきちんと残されて行って欲しいので、叶さんのお仕事には敬服をもって。

大塚康生 道楽もの交遊記

 

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「道楽もの雑記帖」を読んだ

 日本アニメーションの記録などに通じている叶精二さん編集による大塚康生さんのエッセイなどをまとめた本。生前から企画はあったらしいのだが、なかなか実現できず、最後にようやく動きだしたところで亡くなってしまったらしい。それでもなんとかこうした形に残せたのはよかった。ありがたい。

 内容によっては他の著作にも同様のものはあったりするらしいのだけれど、それでも作画の技術的なこと、絵を中心としたものはほかにいくらでもあるのであえてテキストでその周辺のことを語りたいというような趣旨で書かれたということもあって、そこはなかなか興味深い。

 かつて動画がはじまったころの話とかにもいろいろ学ぶものは多いし、こうした紆余曲折の記録というのはやはり残しておかないともったいない。

 冒頭に多数収録された絵の数々もなかなかに見ごたえがあるし、だんだんこういう職人的なアニメーターさんは少なくなっているようにも感じる。

 叶さんには、まだまだ生き証人ともいうべき多くの古参アニメーター(アニメ制作にかかわった人々)の声を少しでも多く残してほしいと思う。もちろん、我々としては、それを購入することで一応の貢献をし、読んで広めて次へつなげる一助にしたい。

 

道楽もの雑記帖 単行本

 

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「わが青春 わが放浪」(P+D BOOKS)

 ブクログはユーザーも多く、まず当たることなどないだろうと思いつつ応募を続けていたら、今回は数も多かったためか、はたまたややマイナーなあたりを選んだためなのか当選しましたと連絡があってびっくりした。実のところ手元に届くまでは嘘ではないかと思っていたくらい。というわけで、ありがとうございます。

 実を言うと森敦は読んだことがない。ただ、名前はよくよく知っている。けれど読んだことはなかった。「わが青春 わが放浪」というタイトルと内容がどうやらエッセイらしいというあたりから、入門するにはちょうどよいのではないかと思った。「月山」からはいったらあるいはちょっと敬遠してしまったかもしれない。もちろん未読なので杞憂にすぎないかもしれない。

 森敦の放浪生活のいったんが書かれているとはいえ、やはり記憶に強く残っている物語が繰り返し語られることが多く、わけても作品ともなった月山での生活は特別なものだったようだ。すっかり荒廃した注連寺(ちゅうれんじ)で一冬過ごすことを決めたというのだが、雨戸も朽ちてぼろぼろでふすまと障子をたてて古い祈祷簿で蚊帳をつくりその中で過ごしたという。吹雪けば雪が吹き込んでくるかような様子だったようで、さながらサバイバル生活。

 そうかと思えば奈良での暮らしもなんどとなく描かれる。まるでコピーでもしたのかというくらいにほぼ同じ文章が長々と必ずついてまわることにちょっと感動を覚えるくらいだ。奈良公園からつらなる丘陵にあるという瑜伽山(ゆかやま)に暮らしたというのだが、その周辺の風景を描いた部分がまさに一言一句同じといえるような長々とした文章にもかかわらず毎度使われているのだったが、読むたびにそれは美しい風景であるなあと目の奥に想像するのだった。。

 そこで不思議な母娘らと出会って町の喫茶店に一緒にでかけたりするのだが、森のことを莫迦にしたような替え歌だったかを作って歌っていたというその娘とどういう縁でか結婚の約束をする。ところがそのまままた放浪にでてしまい 5 年あまりが経過。すでに母娘は事情あって故郷の秋田県酒田市に帰ってしまっているという。さっさといって一緒になりなさいとか周りにいわれて、いや自分はもともと結婚しないつもりなどなかったのだからとか思いつつ酒田へ向かったり。

 10 年働いては 10 年遊ぶのがどうやら自分にあっているのだといって奥さんもむしろそれを受け入れていて、仕事などしないであちこち放浪することを望んでいたり。そうはいっても金がなければというところで、どうしてもとなると友人・知人が口をきいてくれたりして、その縁でとある印刷会社に勤めているという。が、出勤するのは週に一日くらいらしく、出勤しても仕事しているのだろうか、という雰囲気ではあるのだった。

 印刷所の社長が放浪ばかりしていたということをかえって面白いと思い、働かなくてもいいからというような印象すら覚える。果ては住まいの心配までしてくれて、高台を紹介してくれそこに家をたて娘と暮らしている。はじめはアパート暮らしだったが、風呂もトイレも別。裏の竹やぶが風情があってよかったものを他の住民が暗くて邪魔なので撤去しろといったときにも、森がひとり反対し、やがては他の住民が転居し、手狭なことを理由に四部屋も森は借りることになるものの、それぞれに敷金・礼金やら必要でそれは無駄であろうと家を建てることになったとか。

 なんとも荒唐無稽というか、自由奔放というか、まるでそうしたことについて苦にも思っていないという森が不思議でもあり、頼もしくもあり、うらやましくもあり。

 まだ若いころの壇一雄や、横光利一や、菊池寛や、太宰治やといった著名なそうそうたる文人との交流の片りんなどもあちこちにあって、それが実にさりげなく、なんというか時代というものを感じたりする。

 森敦。実に不思議な、そしてしわせな人だなとあらためて思ったのだった。次はほかの作品も読んでみなくてはと切実に思った。「月山」はやはり読まなくてはなと。

余談:
 ペーパーバックということで 600 円という値段はこの時代に破格。昔は文庫も新書ももっともっとずっと安かった。時代とはいえこのくらいの値段で読める環境こそ本には必要なのではなかろうかとも。欲を言えばもう 1 ポイントほど文字サイズが大きければとは。

4093522480わが青春 わが放浪 (P+D BOOKS)
森 敦
小学館 2016-01-05

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 [ 『わが青春 わが放浪』のレビュー 森敦 (kishi24さん) - ブクログ ]

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「京都の精神」


 ポイントが付与されてもったいないのでなにか買うかと見ていたらちょうど金額的にも間に合って、読んでみたいと思えるものがあったので買ったというのが「京都の精神」(梅棹忠夫)。京都案内のようなものもあったのだけれど、それよりはよいかとこちらを選んだ。

 発表されたのは 30 年あまり前のことなので、いまとなってはいささか古びているだろうか、という不安もあったけれど、意外と今も変わらないなあというところが多数指摘されていてなかなかに納得しながら読み進めた。

 はしばしから伝わってくる京都愛というものが強くて、ときにそれが鼻につくようなことも正直ある。京都だけが別格であり昨今よくいわれるような京都類似の範疇のようなものに地方の田舎などをいれてもらっては困るといった例示が非常に多いのだった。

 まあ、それはそれでわかる。京都は確かに一等上をいっているとは思うので同列に扱うのははばかられるかもしれない。ただ、めくじらをたてるほどでもない部分にまでいちいち京都をそこに含めるのはけしからん的な言説が多いのはちょっとやりすぎ感もしてしまう。そこまで特別視しなくてはいけないだろうかとは。

 そういう京都だけが一等特別で他に類を見ないのでよそとは一切一緒にして欲しくない。京都に準じよみたいな殿様っぷりが激しいことをのぞけば、一般的なところとしての論はなるほどと今に通ずるものがあって、耳が痛い人は少なくないのではないか、などと思ってしまう。(が、だいたいそういう人は聞く耳を本来持たないので、なんの影響もないのではあろうけれど)

 観光が産業ということをうたっているところにしろ、これから観光で設けようと思っているところとかは、あらためて考え直すところが多いのではないか、観光のために既存の資源を破壊しておとぎの国を作って「さあ、どうだ」というものばかり作ってみても、そこになんの意味があるのか。そんなことを当時から考えていたというのがさすがではあるなあと。

 電子書籍で読んだのでページ概念を適用しにくいので以下はすべて引用だけれど該当場所を適切に示せないのが辛い。電子書籍の欠点のひとつではあるなあ。

 京都などの観光産業のひとつの行きかたとしては、たとえばほかの観光地とはちがうかんがえで、とびきり高級品をみせるという方法もかんがえられるのです。そのかわり、みにきていただくお客さまにも、どうぞ上等のひとだけきてくださいということになる。一級品展示場だということです。
 ところが、観光というものがいまうごいている方向は、逆になっている。どんどんそれをぶちこわすことが観光開発だというかんがえかたになっている。じっさいおこっておりますことは、みなさんご承知のとおり、日本全国における景観の破壊、これはちょっとめざましいものです。うつくしい景色をどんどんぶちこわしてゆく。それを観光開発と称しているわけです。
 こういうことはかんがえようで、お客がそれを要求するからだという理屈もまたありえます。しかし、お客に要求があるから、いくらでも低俗化してよいかというと、わたしはそういうものではないと思うのです。
 京都なんかも、まさにそういう例になりうるかもしれない。観光客がなにをしに京都へくるかというと、プラスチックをみにきはしません。京都のお寺とか郊外へくるのは、やはり現代的な俗悪さがないところをもとめているのです。そこへいってみたら、でかでかとペンキの標柱や看板がたっているというのでは、まったくぶちこわしです。
 いまは、はじめからある資源のうえにあぐらをかいている。なんら演出というものがおこなわれていないのです。京都全体のイメージをどういうぐあいにつくりあげてゆくかというようなことを、かんがえる役わりをはたすひとはだれひとりいない。ばらばらに、かってなやりかたでおこなわれているわけです。

 演出の上手、下手によって、観光事業というようなものはおおきくかわります。演出家ないしは舞台装置家が必要だとおもうのです。京都全体をひとつのイメージでつくってゆく。(中略)そういう時代になってきている。すでに世界のどこでもやっていることなのです。

 東京に対してでも、まったくおなじような意識がございまして、逢坂山を東にこえたら鬼がでるというのが、京都市民のふつうの感覚だと思います。きょうのテーマは「京滋(けいじ)文化」で、滋賀県のみなさんにはちょっともうしわけないんですが、逢坂山からむこうは世界がちがうとおもっている。東京もこのごろだいぶましになってきたらしいというのが、ふつうの伝統的京都人の意識かとおもいます。
 京都は文化観光都市という看板をかかげてきたわけでございますが、わたしはまえから観光をはずしてください、文化都市ならけっこうですが、観光都市でたつということはたいへんこまる、といってきたわけです。観光では先がしれてしまいます。観光都市というのは、先祖からひきついだ文化遺産を種にして、売りぐいをやるということでございます。
B00EETORPM京都の精神 (角川ソフィア文庫)
梅棹 忠夫
KADOKAWA / 角川学芸出版 2013-08-15

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須賀敦子全集第3巻

 購入したのは多分冬の頃で、布団に入ってからぼちぼちと読むというようなことで時間をかけていたのもあり(途中で献本のとかが入ったりというのもあり、青空文庫のテキストを読んでいたりもあり)といったことで、ようやく読み終えた。ゆえに、はじめのほうはどうだったか、とはっきりとは思い出せないような始末。

 いや、それは今回に限った話ではないか。

 ということで記録として残す程度に。とはいえ、ユルスナールへの思い入れの強さであるとか、イタリアのあちこちの建物や街路の風情であるとか、これまでにもまして強く記憶に訴えるところがあって、そこまで須賀さんが言われるのだから、一度は読んでみようかとか、行けるものなら訪れてみたいものだと思ってしまうくらいには、影響されたりはしたのだった。

 とにもかくにも、これほどまでにあれこれをよく記憶されているなというのが、本音でもあって、自分がこれほどまでに過去のことを鮮明に記憶しているだろうかというと、はなはだこころもとない。特定の記憶に対して断片的にというのは多少あるにせよ、ここまであれこれを詳細に記憶しているというのは見事だなあというか、本当に? とまで思ってしまうくらいに。

 ことによれば詳細部分のいくらかは正確ではなかったかもしれない。もっともだからといって意味を失うわけではないというところが、重要なのかも。

 どうやら第2巻の記録もつけてないようなので、そのうちに記録はしておこう。そして続く第4巻にかかるのは、さていつになることやら。

4309420532須賀敦子全集〈第3巻〉 (河出文庫)
須賀 敦子
河出書房新社 2007-11-02

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智恵子抄


4101196028智恵子抄 (新潮文庫)
高村 光太郎
新潮社 2003-11

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 これもまたずっと未読だったもの。名前だけは知っているものの、どのような内容なのかもどのような境遇にあったのかも知らずにいたので、こういうものだったのかとやや衝撃を受けたほど。

 前半の詩篇についてはやや理解が難しいところもあるものの、後半のテキストを読んでふたりの過ごしてきた時間がわかってくると、そのいくらかが見えるようにも思える。

 最近でも新型うつだのであったり、精神を病んでしまう人は少なくないわけだけれど、このころの精神の病というのはもっと特異なものだったかもしれない。表現は適切ではないかもしれないけれど、今ほど一般的ではなかったがゆえに社会から疎まれる面が強かったような印象がある。

 よくわからない病気などに関してあらぬ嫌悪や噂のようなものから間違った反応を示すことが往々にしてあった時代。

 精神を病んでしまった智恵子自身もさりながら、どうすることもできない周りの者の無力感や周囲の目や空気といったものは、つらいものがあったろうなあと。

わたしもうぢき駄目になる

 と、自ら口にする時の智恵子の心のうちはいかばかりかと思うにつけて切なくなる。それは自らの記憶と交錯する。

 今のそれがもっとずっとよいものであるというわけではないけれど、かつてのそれはもっと暗く辛いものだったような記憶が強い。

 けれど若い頃にこれを読んでも、はたしてどれほど感じるものがあったろうかとも思う。記憶と記録とが交錯して、あるいは今と同じくらいに感じるものがあったかもしれない。今となってはそれはわからない。

 若いころに多くのものに触れておくことの重要性というのは、つまりそういうことかもしれない。その時にはあまり感じるものがなくとも、後年になってなにかの折に思い出したり、あるいは再読する機会に恵まれたときに、かつてでは感じ得なかったなにかがあるかもしれない。

 東京に本当の空が無かったり、安達太良山の一節を思い出すときに。

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その後とその前


4344021363その後とその前
瀬戸内 寂聴 さだ まさし
幻冬舎 2012-02-24

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 本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 ドラマであったり、はたまたドキュメンタリーであったり、物語が時系列に沿って展開するのではなく、時間を行きつ戻りつしながら展開していくものが時としてあります。演出としてそれが成功するかどうかは微妙なところもあって、必ずしも良い効果を生むとも限りません。

 この対談の構成はまさにそうで、一度対談したあとで東日本大震災が起きたために、その後ふたたび対談したものとあわせて出版されたもの。ただし、前後を順繰りに構成されているのが特徴。

 本文冒頭で編集の断り書きがあり、あるいはこうした構成を読みにくく感じる方には、それぞれ(前だけ、後だけ)を拾い読みしてもらいたい、といったことが書かれています。

 確かに話のテーマはいろいろに変化していくものなので、一度の対談の中でもいろいろな話題があることを思えば、震災の前後であろうとそれは似たようなものと捉えることもできます。ただ、やはりその基本的なスタンスがあまりに違いすぎるために、どうも小出しに前後が入れ替わると読みにくいというよりは、いらいらしてくるものはあります。

 といって同じ時期を探しながら拾い読みするには、正直不便でもあります。内容はともかく、構成の意図はそれとして、それでもなおこの構成を取る必要性・意義はあったのだろうかと、感じざるを得ません。

 一方の内容はといえば、これはもう長年生きてこられた寂聴さんのやさしく、丁寧で、そして厳しくも愛のあることばにいちいち胸の隅が痛む思いやら、快哉をあげるようなことまで。


 どうしても震災関係の言葉が多くなってしまうけれど、被災者の方に向けてのこんな言葉や、

寂聴:なんでもいいことだけじゃないし、悪いことだけじゃないの。大震災はほんとうに大変な出来事で、いまだに苦しんでいる方も悲しんでいる方もたくさんいらっしゃる。だけど、どんな悪いことの中にも、少しはいいことが含まれてるのよ。(P.35)

 支援しようという人に向けては自分自身のことから、こんな言葉を発し、

寂聴:一生懸命働いて、やっとできたお金でしょう? でも、そのときよくわかった。自分が惜しいと思うぐらいあげなきゃダメ。(P.93)
寂聴:それでやっぱり、できる限り現地に行くってことが大事ですね。

さだ:現地へね。
寂聴:その場に身を置くと、感じ方はまったく違ってしまいます。どんなにテレビがきれいになったって、絶対に伝えられない真実があるのよ。(P.158)

 人生においては寛容が大切なのだと静かに語られる。

寂聴:自分じゃ気がつかないけど、自分の存在そのもので人を傷つけてる。それでも許されて生きてるんだからね、だから、自分も大抵のことは許さなきゃいけないんですよ。(P.180)

 「老いては子に従い」とはいうものの、やはり苦難の時代を生き抜いてきた人のことばというのは重みが違うのだと実感する。自らへの戒めもこめて、多くの人にこのことばを送りたい。

寂聴:今の人は感謝しないね。本当に感謝が足りない。(P.74)




その後とその前
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  • 幻冬舎
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大河の一滴


4877287043大河の一滴 (幻冬舎文庫)
五木 寛之
幻冬舎 1999-03

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 本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 どうにも以前に目にしているタイトルではなかったかと思いつつ手に取ると、やはり 12 年あまり前に文庫版がでており、なぜ今なのかと思えば、あるいはこの大震災を受けてというところがあったのだろうかと思いつつ、読み進めた。

 読み始めてすぐに大震災との関連をつい連想してしまったのには、たとえば冒頭の「大河の一滴」の章にある、

「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟するところから出直す必要があるのではないか。(P.20)

 という言葉にも代表される。人は生まれた以上、かならず死ぬことが決まっており、どんなに他人や家族に愛されようとも、死そのものはひとりで向き合わねばならない。多くの人に看取られたとしても、結局自分で受け止めなくてはならないというのは確かにそうで、だからこそ、どう死ぬかということは意味を持つのかもしれない。

 千葉敦子風にいえば、それはどう生きたかによって決まるともいえるか。生き方が死に方・死に様となるというのは、自分で死を受け止めるよりないということともつながる考えかも。

 その上で、家族や他人に期待するべきではないと説く。国家や政府に対しても期待するべきではないと説く。期待するから裏切られたとか思うわけで、そもそもそうした期待を持つべきではないのだと。アガペーという概念で考えるなら、誰かから受けることを期待するのではなく、ただただ、自分が回りに対して与え続けるということで十分ではないかということかもしれない。

 なんの期待も見返りももたずに与えることが、やがては自分自身になにかを返してくることはあるだろうけれど、それもまた期待しないからこそなのかもしれない。

 ここで勘違いしてはいけないのは、期待と信頼(信用)とは少しばかり違うのだということかもしれない。期待はするべきではないが、信頼(信用)はするべきなのではないか。もちろん、誰をあるいは、なにを信頼するのかというのは、人それぞれなのかもしれないけれど、信頼すべきを信頼できないのであれば、むしろなにも信頼しないほうが、あるいはよいのかもしれないとも思う。

 政府を信頼できないという人は、自分が思うような期待が政府から得られないので信頼できないという風に、論理をすり替えていないだろうか。なんの期待もなく信頼に足るのかどうかをきちんと見ているだろうか。信頼できないのではなく、信頼したくないのではないか。

 不安を煽るのに忙しい人の意見のほうが、なぜか信頼されやすいこともあるが、冷静にきちんとした知識と情報で整理すれば、どれが信頼に値するのか見えてくるのではないか。それがわからないのであれば、いっそどちらも信頼しないというくらいのほうが、なにがしかを期待してしまわないという意味でもよいのかもしれない。などと、この大震災関連の報道などを見ても思う。

いま自分が生きている時代をどう見るかは、その人その人の立場による。現在の政治や、経済や、医療や、教育のことを考えると、私にはひどいことになっているなあ、と、もはやため息すら出ない感じがする。(P.51)

 出版されたのは 13 年あまり前のことなのに、まったく今このときのことを言っているのではないかと思うような符合。そしてこの大震災を受けて、日々あれこれと思う事柄などにも思いを馳せるような言葉がいくつも見つかる。

 五木さんは、悲しむことも必要なことであるし、ユーモアというのも絶望の中にあって生きる希望を見出すために必要なことなのだという。本当に、今この時に必要だったのだと思わせるような言葉たちが、やさしく丁寧に語られていく。困難にある人に、勇気と元気と希望を与えてくれるのではないかなと。

 いま歌の力も弱くなっている。なぜか。それは社会のなかのそれぞれのブロックのように固まったそのグループのなかだけで愛される歌、そういう歌だけになってしまって、気持ちが悪いという人はいるかもしえませんが、その時代を共に生きている人間全部の心にしみわたるような、そういう歌がいまはない。それはもうなくて当然だ、という気もします。

 だけど、いつか、そういう歌が生まれてくることがあるのかもしれない。しかし、そういう歌が生まれてくるときは、ぼくら日本人にとって、それは不幸な時代なのかもしれない。でも、不幸のなかで、ひょっとしたら生きているという実感が鮮烈に感じられるような、そういうことがあるのかもしれない、などと迷いながら、いろいろいまの時代の動きを横目で眺めています。(P.150-151)

 震災後 NHK が番組宣伝などのスポット枠で、「歌でつなごう」という短い番組を流している。歌手のメッセージと歌を流しているもの。ベテラン歌手であれば、割と昔の歌も多いけれど、なかには比較的最近のものもある。いずれも、耳になじみ、ふと心が穏やかになり、ささやかながら力を与えてくれる、そんなものが選ばれている。

 サントリーが流している CM も評判を呼んでいる。「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」を多数の芸能人の歌のリレーで映像化したものだけれど、これもまた期せずして昔の歌だった。小さな子供にはなじみはあまりないかもしれないけれど、やや若い世代でも心にしみる歌のためか、好感度は非常に高いようだ。

 そうしたところを見ても、歌の力が弱くなっているというのは、まだ継続しているのかもしれないという思いがする。実際、それらの歌は敗戦後の復興が進んだ時代で、多くの人がまだ貧しいけれど、懸命に生きている、そんな時代だったかもしれない。

 困難が続いている今、わけのわからない不安ばかりが取り巻いている状況で必要なのは、時に歌であり、時に笑いであり、時にこうした言葉なのではないかと。困難や苦しみ、悲しみはあって当然なのだと。そんな中に希望や元気を与えてくれる、そんな言葉として、とても穏やかに語りかけてくれる。

目に見えるものだけを信じてきたのが、これまでの私たちの科学であり、私たちの学問だったと思います。見えないけれども、私たちがそれを認めることができないだけなのではないか、私たちの能力が限られているからではないか、と謙虚に考えたほうが自然なのではないか、と思います。(P.156)


 この今こそ、あらためて読まれるべき一冊だと言えるかもしれない。常に手元に置いて、何度となく読み返したくなる一冊です。




大河の一滴
  • 五木寛之
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「はやぶさ」式思考法


4864100632「はやぶさ」式思考法 日本を復活させる24の提言
川口淳一郎
飛鳥新社 2011-02-04

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 本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 2010 年 6 月が近づくにつれて、それまでは「はやぶさ」ってなに? だった多くの人々まで一喜一憂しながら待ちわびたその帰還。そしてカプセル投下、回収。あまりにも過酷な運用状況の困難を耐え、まさにだましだまし帰還させたという物語にその興奮はなかなか冷めやらないものがありました。かくいうわたしもあまり知らないままいたひとりではあります。

 その後、小惑星イトカワ由来の微細な物質の採取が確認され、ますます注目を集めるところとなり、昨年から今年にかけて次々と「はやぶさ」関連本の出版が相次ぎました。そんな中で『「はやぶさ」式思考法』は、特に異色な「はやぶさ」本といえるかもしれません。

 はやぶさプロジェクトそのものについてではなく、過去の失敗や成功から学び、はやぶさプロジェクトに最大限に生かされたプロジェクトを進めていく上で何が大切なのか、ということに焦点をおいて書かれたもの。

 副題に「日本を復活させる 24 の提言」とあるように、とかく日本的な社会・企業において閉塞感を生んでいると思われる現状を打ち破るには、はやぶさプロジェクトのような手法が大きな意味をもつはずだと著者川口さんは言います。

 実際、重たい空気を打ち破って新たな試みや、斬新なことをしていこうと思うときに障害となるのは、古い日本的な体質というのは多くの人が理解しているであろうところであって、その意味で示されている 24 の提言はどれも首肯するものばかり。

 いくつか章題だけを抜き出しただけでも、それは推察してもらえるはず。

03:ルールは少ないほどよい

04:教科書には過去しか書いてない
07:「失敗する」チャンスを与えよう
09:スケジュールは必ず遅れる
11:失敗を隠そうとするな
14:迷うくらいなら、どっちでもよい
17:「こうすればできる」と考えよう
19:「わからないこと」を認識しよう
20:どうしたら運を拾えるか

大学院生の頃、長友信人先生から「今見えている物はみな過去の物である」とアドバイスを受けました。教科書や論文をどれだけ読んでも、そこに書かれているのは過去に過ぎず、新たな発想を提供する物ではないということです。(P.41 04:教科書には過去しか書いてない)

 投下されたカプセルにイトカワの微粒子が回収されたときに、川口さんが主張したのは「第一に国民に見せるべきだ」だったそうだ。理由は、

国民が誇りを感じ、元気を出し、活発に活動するようになること、科学技術政策は、それを目的としているわけです。ならば、感動の冷めないうちに、より多くの国民に見てもらうべきでしょう。そうしなければ、国家プロジェクトとしての意味が失われます。(P.44)

 よかれと思って失敗しないやりかたをなんでも教えてしまうようなことがよくあるけれど、それは必ずしも身に付かない。失敗するという経験をしなくては学べないことも多いもの。誰もが同じ道をほんの少しずつ違った形、違った時間の進み方で学んでいき、さながら時間礁のごとく、ゆっくりゆっくりと知識というものは進化していく、そんな側面を持っている。じれったいようでも失敗することは時として必要でもあります。

 これからの日本をつくるために考えなくてはならないのは、民族的な悪弊を打破すること。

人間にも「多様性」が必要です。「いろいろな発想をする人がいたほうがいい」--これは当たり前のように聞こえますが、社会全体をそういう方向に向けていくのはなかなか大変です。ことに我が国のような島国の単一民族国家では、ほっておくとどんどん均一化していく傾向があります。「みんなと同じ」だと安心感が持てるので、情報通信の発達とともに全員が同じ方向を目指してしまうのです。(P.209 23:教育の時代から研究の時代へ)

 この均一化するというのは、昨今のネットワーク社会においてもその一端を時折見ることがあります。今回、東日本の大震災を受けて、誰かが不謹慎だと言う声に過剰に同調して異様な圧力となって動きだしていったことなどは、ひとつやふたつではありませんでした。当初にあったつい買いだめしてしまったといった現象もまた、同様の心理背景があるかもしれません。

 技術者にとどまらず、まさに老若男女を問わず多くの人が一読して、こうした意識を共有することが、今の日本を変えていく一助になりそうだと思える一冊です。

 もちろん、そうして皆で読んで均一化してしまっては、元も子もありません。川口さんが言うのは、そうした意識を持って、それぞれが独特に考え行動していくことなのだと思います。

 かつて経験したことのないほどの大災害が起きた今だからこそ、本書の持つ意味はいっそう増しているといえるかもしれません。

きむらさんも時期を同じくして読まれていたとは。
 「14:迷うくらいなら、どっちでもよい」について、わたしは「迷ったときは、はじめの決定に従う」ということを自らに言い聞かせたいと思っています。




「はやぶさ」式思考法 日本を復活させる24の提言
  • 川口淳一郎
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談慶の意見だ―絵手紙集


4784071504談慶の意見だ―絵手紙集
立川 談慶
信濃毎日新聞社 2011-01

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 月に一回の新聞連載を楽しみにしているのが、立川談慶さんの「談慶の意見だ」という絵手紙コラム。落語家らしく、時にちょっと重い話題でも上手に笑い飛ばしてみせてくれる。目の付けどころがうまいなあと思うこともあり、あわせて描かれている絵手紙が一味きいていたりして、それもまた楽しみのひとつ。

 もちろん、時にはあまりすっとしないときもあるにはあるのだけれど、まあこのあたりは好みの領域でもあり、許容範囲というか、そういうもの。総じて楽しい。すでに 5 年あまりになろうということで、それほど前からだったろうかと記憶もおぼろ。考えてみればスキャンして残しておけばよかったなあと思っていたのだけれど、今回本にまとまった。

 実物はまだ見ていないのだけれど、絵手紙集というくくりになっているところを見ると、絵手紙だけを集めただけなのだろうか? ページ数からいってもあるいはそうかもしれない。それはちょっともったいない。文章もあるといいなあ。

 実のところ、昨年の春くらいのものをひとつだけ残してあって、それは著名なKさんの話題に関連してだった。「勝つまでの間、和みの代わりになるもの」などと揶揄するような文章も書かれていたけれど、別に批判的なものというわけでも肯定するというものでもなかった。そのあたりの事実を事実としてみるというスタンスも好きだったりする。まあ、意味不明なようにも見えて、なかなか言い得ているなあと思ったのも事実。さて、今も和みの代わりになっているのかどうか。

 旧丸子町出身ということで、古くから地元のテレビ番組などにも登場し、真打昇進のときには特別番組も組んでもらった経緯もあり、地元民としては応援したいところでもある。まあ、師匠ゆずりでこのところ少々毒を含んだ雰囲気も感じられて、時として眉をひそめがちなこともなくはないのだけれど、ますますご活躍されますことを。

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