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「うつりゆく日本語をよむ ことばが壊れる前に」を読んだ

 ことばは変化するものではあるので時代を経てその意味合いや使われ方に変化が生じることは避けられない。

 そういう視点の上でなお、さすがにこうした使われ方は現状においてはどうだろうか? という気づきを忘れてはいけないのではないかという一連の提案。

 ことに新聞やテレビといったメディアでのことば使いがどうにも安易すぎるあたり。もちろんそれはおおやけの目につきやすいからというのもある。

 また、ことばには「書きことば」「話しことば」といった違いがあり、それぞれの特徴、状況といったことによってその意味あいが異なることにも着目。

 会話の場合には、お互いに話す内容についての共通認識というものが必要となるが、仮にどうも勘違いしているなと思えば、その時点で確認してただすことが可能であるのに対して、書きことばの場合には書かれているものがすべてであるので、そうした共通認識が得られるような書かれ方、ことば選びというものが必要となる。

 ところが昨今は「書きことば」に「話しことば」が進出することがふえていて、そうした共通認識をまったく考慮しない例が増えてきているのではないかと。実際、なんど読んでも意味をくみとれない文章というものが増えている印象はある。

 書きことばはややまどろっこしさがある。けれどそれを排除して話しことばだけにしては、のちのちの世にことばを伝えることも難しくなるとも。

 古文書が読解できるのは、そうした共通認識的な書きことばというものがあるからであって、話しことばだけで書かれてしまっては、それはもはや長く残されることも理解されることもなくなってしまうのではなかろうかと。

 近年は話ことばで書かれた文学というものも増えているけれど、そうしたものはおそらく 50 年 100 年後に読まれるたときに、読みにくく、意味の理解が難しくなっている可能性はたしかに高いのではなかろうか。

 そこへ近年「打ちことば」が登場して状況はますます混迷を増す。

 変化そのものは受容すべきではあるが、それはまた時と場合による使い分けを求められるということに過ぎないのではないか。そこをおろそかにしてしまうと本質的なことばの意味を失ってしまうのではないかと。

 大切な気付きを与えてくれる一冊。

 

うつりゆく日本語をよむ: ことばが壊れる前に (岩波新書 新赤版 1907)

 

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