「完訳版 赤毛のアン」(松本侑子訳)
村岡花子訳でひととおり読んではいるが、さすがに昭和初期の翻訳なのでいささか古臭いことは否めない。ここへきて松本侑子さんがさまざまな訳注を含めた新しい完全翻訳に取り組んで出版となったので、ずっと気にはなっていた。ようやく買ったものの、分厚さもあってか少し後回しにしたのだが、ここへきて読み終えた。よかった。
厚さはその文字の大きさにもよっているし、訳注の多さにもよる。文字の大きいのは年寄りにとってもありがたい。文章も今の時代にこなれたものなので読みやすさは格段に違うだろう。
もちろん、それで村岡花子訳に価値がなくなるなどということはなく、今も変わらず読者をひきつける魅力にあふれているのは間違いない。ただ、おそらくはこれから先の時代において次第にその文章ではとっつきにくくなっていくことも想像に難くない。いま、ここで新しい翻訳がでることの意義もまた大きいし、膨大な訳注はその世界をより詳しく知ることに大いに貢献してくれる。
以下、いくつか気に入ったフレーズ。
「マリラ、明日は、まだ何の失敗もしていない新しい一日だと思うと、すばらしいわ」
アンは勝手口にある大きな赤い砂石にすわり、マリラのギンガムの膝に、巻き毛のくたびれた頭をのせ、一日の出来事をさも嬉しそうに語った。(22 章)
アンのように思いのたけを言葉にして伝えられるものなら、マリラはいくらでも話しただろうが、生まれつきの性格と習慣がそうはさせなかった。マリラはただ、アンの体に両腕をまわし、この子を手放したくないと願いながら胸に優しく抱きかかえるのが精一杯だった。(34 章)
「そうさな、でもわしは、一ダースの男の子よりも、アンのほうがいいよ」マシューはアンの手をとり、掌で優しくなでた。「いいかい、一ダースの男の子よりもだよ。そうだよ、エイヴリー奨学金をとったのは、男の子じゃなかったろう。女の子だよ……わしの娘だ……わしの自慢の娘だよ」(36 章)
でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるかわからないけど、きっとすばらしい世界があるって信じていくわ。それにマリラ、曲がり角というのも、心が惹かれるわ。 曲がった先に、道はどう続いていくのかしら……緑の輝きや、そっときらめく光と影があるかもしれない……新しい風景が広がっているかもしれない……美しいものに出逢うかもしれない……その先でまた道は曲がって、丘や谷があるかもしれない」(38 章)
マシューが「一ダースの男の子」というところ、村岡花子訳では「十二人の男の子」となっていて、時代を思わせる。戦後間もないころでまだ「ダース」という単位についてはあまりにも一般的ではないということで「十二人」ということになったのだろうと想像する。ただ、なぜ切りのよい「十人」ではなく「十二人」なのかと疑問に思った読者も少なくなかったのではなかろうか。
もちろん、今も「十二人」といったところで特に不便はないだろうけれど、一対一という対比における「ダース」だったのだろうから、このほうがしっくりとくるといえるかもしれない。
いっぽうで一か所気になる文章もあった。
「はい、この箱よ。ジョゼフィーンおばさんから大きな荷物が送ってきて、いろんな物が入ってたの。(25 章 2020/3/25 3 刷)
「荷物が送ってきて」というのは違和感のある文章。「荷物が送られてきて」とか「荷物が届いて」とかならばわかる。あるいは、原文に忠実に訳すとこういうことになるのか、はたまたミスなのか、あるいは、松本侑子さんにとっては自然な文章なのか。それは、わからないが。
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