« 語りすぎないことの妙 「色づく世界の明日から」 | トップページ | 「数学ガールの誕生」 »

「アニメと声優のメディア史」

新聞の書評で見たのはおそらく一月のこと。気になったのでリストに追加しておいたものをようやく購入して読んだ。

が、正直なところ期待したほどのものではなかった。青弓社ということもあってカバーそのものが帯の役割もなしているのだが、惹句にいわく「なぜ女性が少年を演じるのか」と。

もちろん、言われなくても成人男性の一般的な低い声であったり声質であったりでは、変声期前の男子の声をあてるにはやや不向きだということは誰にでもわかる。その程度ではないなにかを調べたり考察しているのであれば、それはそれで面白そうだと。

結論からいえば、おおむねそういう理由でしかない。いや、加えて言うならば、これもまた当たり前の理由ではあるのだが、いろいろの法令による制約。つまり、子どもを遅い時間帯に働かせることができなくなったという GHQ 以降の日本の法的な事情。

子供を採用した場合、特に年齢的に変声期にかかるようであると、作品の途中で声が変わってしまって都合が悪いであるとかもあった。また、演技という点においても大人顔負けの子役というのももちろんあるけれど、すべての子役がそうであるとはなかなかいえない。

そこで若い女性が少年を演じれば、声の質もさほど抵抗がなく、声変わりする心配もなく、法的にも問題ない(というと深夜だろうが、過重労働だろうが関係ないと考えてしまいそうではある)。

結論としては、そうういことでしかなかった。

その後は、以降のアニメ作品における女性声優の役割などについて考察しているのだが、どうにもしっくりこない。さらに、ダメなのは各種資料にあたっているのだが、なぜか当事者・関係者に直接あたることはあまりない。近年の女性声優に直接話を聞いたものは少しあるが、ほかはほぼない。本、もしくは実際の作品を自分が見て”感じた”ことを証拠にしているだけだ。

以降、政岡憲三が演出した『くもとちゅうりっぷ』(一九四三年)、海軍プロパガンダ作品で瀬尾光世が演出した『桃太郎 海の神兵』(一九四五年)でセルを用いたフル・アニメーションを実践し、日本でのアニメーション映画制作を牽引した。興味深いことに、声優の配役もディズニーの長篇劇映画と同じく、キャラクターと声優との年齢と性別を一致させたものだった。『くもとちゅうりっぷ』では、幼い少女の姿をしたてんとう虫を少女童謡歌手の杉山美子が演じ、『桃太郎 海の神兵』の桃太郎役は、クレジットに記載はないものの、声の調子から少年子役が演じたと推測できる。(p.92)

 

一方、東映動画では、すでに述べたとおり連続テレビシリーズであっても子役が少年主人公を演じた。したがって、収録スタジオを備えていたことが、午後八時以降の就労が不可能になり、また学業との兼ね合いをも考慮すべき子役のマネジメントを円滑におこなうには有利だったと推測できる。(p.102)

 

なぜ直接取材しなかったのだろう? 前者であれば自分で DVD なりを見てその声の感じからこうだと決めている。後者もあくまでも推論だ。なぜ、きちんと裏をとろうとしないのだろう。こうしたことが積み重なって、以降の論に共感できなくなっていく。

直接関係者がすでに亡くなっていることがあったとしても、東映動画なりであれば、会社に取材することはいくらでもできるはずではないのか。関係資料がきちんと残っていれば、それこそきちんとした裏がとれるわけで、考察にもより意味が増す。

なにより、こうした論考をする者にとって、それこそが基本的な仕事ではないのかと。そこをないがしろにして論を進められたところで、ネットでわが物顔で自説を声高に叫んでいる残念な輩と大差なくなってしまうのではなかろうか。

その後、無理矢理に女性声優が演じるということでジェンダーやら、百合やら BL やらへと話を進めているのだけれど、結局なんだか空疎なものにしか感じられなかった。参考文献の異様なくらいの多さだけが目に付くばかりで。

そもそも論として GHQ の時代にさかのぼって証拠固めをしたことはよかったけれど、そこまでなのでブログ記事でもよかったのではないかとは。

アニメと声優のメディア史

|

« 語りすぎないことの妙 「色づく世界の明日から」 | トップページ | 「数学ガールの誕生」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 語りすぎないことの妙 「色づく世界の明日から」 | トップページ | 「数学ガールの誕生」 »