歩く、歩く、歩く
NHK 「にっぽん紀行」で北海道は中標津にあるという一本道の話。どうやらここ 10 年あまりの間で作られたということらしいのだけれど、作ったのは農家(おもには畜産業か?)の方を中心として作られたというのだった。冒頭にざっとルートが示されたのだけれど、中標津から摩周を抜けて美留和までという長大なもので全長は 70km あまりとか。もっとも、すべてのルートを新規に開拓したというわけではないようで、既存の農道なども利用しているようではあった。
実際あの砂利道あたりは広大な農耕地にめぐらされた格子様の直線道路によくあったものだ。それらをつなぎあわせ、歩くことのためという目的に接続する補完道路を整備したということなのだろうかと理解した。
ざっと見たところで開陽台(かいようだい)も通りそうなと思っていたらやはりそうで、はじめに紹介されていた女性が歩いてまず向かった先が開陽台だった。が、映し出されたその風景に唖然としてしまった。いや、自分がそこに立ったのはまだ出来て間もないころだったのだから無理もないのだが、その整備のされ方のすさまじさに驚いてしまった。
当時の展望台は本当に足場を組んでみました、というくらいに粗末なものだった。鉄骨を組んだだけのようなものだったように記憶している。30 年も前なので記憶違いのところはあるかもしれないが、どう見てもあそこまで立派なものではなかった。
さらには当時は駐車場など整備されてもおらず、ましてアスファルト舗装なんてされていなかった。むきだしの地面しかなかった。さすがに浦島太郎状態は否めない。
ひたすら歩くことで無心になれるというのはよくわかる。自分は歩いたわけではなく、自転車で走っていたわけではあるけれど、場所によってはよく歩いたところもあるし、ゆったりした時間を過ごしたという経験はやはり似たような効果をもたらしたことは今も記憶に新しい。
そのころから言っていることなのだけれど、「人はその移動速度で思考する」というのがある。たとえば車でばかり移動する人は、ほんの50m と離れていないコンビニに行くにも車に乗ったり、時速 100km といえばとてつもない速度であるはずなのだが、ひとたびその速度を手にしてしまうとそれでも遅いと感じてしまうところはあって、さらに速くと思ってしまいがちであったり。
一方で日々歩いている場合には、所詮急いだところで限界が見えている。むしろ急ぐことで疲労は増すのであるし、疲れない程度に進むことこそ最速であるというような考えを持つ。急ぐ人はどうぞお先にとも思えるようになる。
といった風に、思考の仕方そのものが移動速度に応じて変化するというのはあるのではないかと。もちろん、そのどちらかが間違っているなどということではない。ただ、あえていえばどれかひとつにとらわれすぎてはいけないのではないかということはいえるかもしれないと。
その意味で、ふとひたすら歩くだけという行為をしてみるとことでいろんな思考が払拭されて、シンプルな自分に出会うことができるというのはあるかもしれない。そして、それは無理にそこでなければなしえないということでもない。身近なところにもそうした道は、場所はきっとある。まあ、それでもあえてまったく別の場所、広大な場所ということにも意味がないとはいえない。北海道という大地は人間を解放してくれるような広さを持っているのも確かかもしれない。
ちなみに当時の宿、地平線はいまだ営業されているらしく懐かしく思い出した。若い頃の旅は、するものだよなと。
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