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見ざる、聞かざる、だがとことん言う、で本当によいのだろうか

 [ NHKスペシャル | “あの子”を訪ねて~長崎・山里小 被爆児童の70年~ ]

 夏ということで先の大戦関連の番組が多くなる NHK スペシャル。そんなものばかり続いてしまうが、少しだけ記録しておきたのでやはり書いておく。

 長崎の日だったので長崎の原爆投下による被爆にまつわる番組だった。爆心地に近い山里小学校。1000 人以上の子供が犠牲になり、たまたま生きながらえた子供 37 人が、のちにその被爆体験を文章にし、それを本にまとめていたらしい。NHK では過去にもその 37 人のその後を取材して番組を作っていたようだけれど、今回も戦後 70 年を受けてのあらためての番組ということだった。

 亡くなったかたも数人はいるようで、語りたくないという人もあったようではある。それは本人の場合もあるようであるし、家族・親族がそれを望まないという例もあるようだ。

 ふと思ったのは広島でも活発にされているという語り部のこと。小学生とか園児とかに体験を語った場合、いまならきっとあまりにも凄惨な現場の話に PDSD のような状況を発する子供もあるのかもしれないなと。そうしたら本当に最近はそういう苦情を言ってくる例があるらしい。被爆体験など話すなとか、子供が精神的に病んでしまったから責任をとれとか。

 確かに子供にとってはあまりに凄惨すぎるできごとだろうとは思うし、その意味では内容を吟味する必要はあるのかもしれない。ただ、だからといってその事実に目を閉じ、耳をふさいでいてはいけないのではないかとも強く思う。

 とかく長い平和にすっかりつかりきってそんな過去のことはもう忘れてよいのだ、知る必要などない。今が楽しければよいではないかというような風潮の昨今。なにかといえばクレームをいれるのが正義だと思い込んでいる一部の人々。

 語り部というものの別の意味での困難さを感じる場面だった。

 ご本人もすでに 80 歳ほどになっていて体調もかならずしもよくなく、そこへそのような苦情がまいこめば精神的にすっかり元気や意欲をなくしてしまうかのようだった。

 人は忘れるものだし、忘れることで生きていけるという仕組みもまた存在する。けれど、過ちを繰り返さないためにも忘れないように心がけなくてはいけないことというのもまたあるはずで、学校教育で近現代史をおろそかにしてきた教育行政の不備というのもあるのかもしれない。いや、それはことによるとむしろ政府としてのそういう歴史は基本忘れてほしい、興味を失っていて欲しいという方針のあらわれだったりしたのかもしれない。

 語り部事業については必要性を理解はするし、それはそれであってよいとも思うけれど、それがすべてではないとずっと思っている。記録は必要だし、それを後年あらゆる人が知ることのできるものとしておくこともまた必要だ。少なくとも小さな子供への語りという行動派少し変革を求められるのは仕方ないのだろうなと。全体として伝えることというについて考え直す(後ろ向きでは決してなく)時期にきてしまった。それが、戦後 70 年ということなのかもしれない。

追記:
 そうそうちょうど落合先生がこんなことをつぶやかれていて、昔はこういう大人がたくさんいたものだなと思ったり。今でもいないとは思わないが、むしろそうでない者が幅を利かせているような印象ばかりだ。

落合洋司 Yoji OchiaiさんはTwitterを使っています: "子供の頃、夏に広島市内に行くと、路面電車の中などで、薄着で、ものすごいケロイドのおばあさんとかがいて、子供なので、びっくりするし怖がっていると、親が、原爆でああなった気の毒な人だからじろじろ見てはダメ、と厳しく言われたのを思い出す。"

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