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湿地

 本が好き!で献本していただきました。ありがとうございます。

 訳者あとがきで作者へのインタビューの一部が紹介されている。なぜミステリ小説なのかという問いに次のように答えている。

これまでミステリはアイスランドでは軽んじられてきました。(中略)また、他の国のミステリで題材となる大量殺人や派手なカーチェイスなどは人口三十万人の小国ではあり得ないからミステリはアイスランドでは非現実的と、書き手が敬遠していたことなど、理由はいろいろあると思います。私は普通の人の暮らし、その中での犯罪を書きます。人の暮らし、平和な日常、家族がいちばん大切だと思っています。その大切なものが脅かされ、壊されるのはなぜなのか、社会全体を書きたいのです。それにはミステリが適切な手段であると思います。(P.373)

 近年コージーミステリなどでは、小さな町(登場する人物すべてが知り合い)を舞台にしたようなものもあるにはあるが、確かに派手なミステリ向きではないかもしれない。犯人の過去として登場するくらいなら別として。

 しかるに「湿地」ではこのアイスランドという土地特有の事情をむしろ有利として物語を展開させている。アイスランドという国なくして、このような物語は恐らく成立し得なかったのではないか。あとがきや解説を読んでアイスランドへの理解をますと、余計にその思いを強くする。

 物語はひとりの男(老人)の死(おそらくは殺人)を発端とする。明らかに殺意を持って殺害されたのではないかと目されるメモが遺体のそばに落ちている。ノートの切れ端に書かれたそのメモが、冒頭クローズアップされる。

 しかし、その内容は中盤まで明かされることがない。

 読者はまずそれに驚く。いや、普通それは明かされるべき事実ではないのか? と。冒頭明かされるのはそのメッセージが三つの単語からなるということと、最後の単語は太字で書かれており、それは「あいつ」という文字であったということだけ。もちろん、中盤でそのメッセージがすべて明かされても読者にはやはりまだ意味不明だ。しかし、よくあるダイイングメッセージのようなものとも違う。簡潔な文章でしかない。それだけに、その真意を汲み取るには情報がまだ足りない。

 被害者であるその男の身辺・過去を調査するうちに次々とうかぶ疑問や疑惑によってますます混沌としていき、漠とした空気に満たされていく。男はかつてレイプの容疑をかけられていた。被害女性の訴えを警察がほとんど拒絶するかのような処理により、男が起訴されることはなかった。

 その後、訴えでた女性は女の子を出産するが、その子は悪性の脳腫瘍で 4 年の命を閉じる。数年後には女性もみずから命を絶つ。女性の姉は警察に対して激しい嫌悪を今も隠さない。女の子の父親はその男であった可能性が高い。さらには、ほかにもレイプ被害にあったと思われる女性がいたらしいことがわかってくるが、捜査は困難をきわめ、無意味な時間を浪費しているのではないかとすら思えてくる。

 捜査をすすめるうちに女の子の死因である脳腫瘍は遺伝性のものであった可能性もでてくるあたりから、なぜ物語がアイスランドでなくてはならないのかがより現実味を帯びてくる。アイスランドはいわば閉じた世界であり、教会などの出生死亡記録などから家系を遡ることができる。多くのアイスランド人はかつてきょうだいであり親戚であったのだ。ゆえに遺伝的な病気は、特徴的に発現する。

 そうして気がつけば読者はすっかり物語に没入している。ページを繰る手が止まらないという読書は久しぶりだ。うっかりすれば徹夜で読み終えてしまうほどに。簡潔な文章で過不足なく語られており、それでいて情景はしっかりと目の前にうかぶ。降りしきる雨の音さえ、その冷たささえ感じ取れるくらいに。

 被害者の男の過去になにがあるのか。それが事件と本当に関係するのか。次第に明らかになっていく事実の前に、中盤あたりともなれば読者にはある程度そこから類推される物語が見えてもくる。ある意味作者は期待を裏切ることなく、その事実を丁寧にていねいに描き出す。

 当然ながら主軸の事件一本やりでは、物語は単調となって面白みにかけてしまう。本作におけるサイドストーリーは主人公エーレンデュルと今では微妙な関係としてしかつながりのない娘、エヴァ=リンドとの関係を描く部分。薬中で金がなくなると父親に無心にくるだけの関係となっていたのだが、妊娠を機にかすかな変化を感じているのはエーレンデュルだけではないはずだ。

 さらには事件の背景にせまる材料として、警察内部の体質や医療界をめぐる事柄、ノルデュルミリと呼ばれるかつての湿地地帯の歴史そのものも登場し、それらが渾然一体となってタイトルである「湿地(ミリン)」の意味が深くふかく読者にのしかかってくる。じっとりとした、腐敗したにおいの充満するような安アパート。それらアイスランドの歴史そのものが物語の底辺にどっしりとかまえている。

 期せずして梅雨時に読むこととなったわけだが、日本で「湿地」を読むにはまさに梅雨をおいてない。連日降り続く雨。傘はささない。心のそこまでふさぎこんでしまいそうな曇天。それこそ、「湿地」の世界を疑似体験するにふさわしい。

 日常ほど謎に満ちたものはない。普通の人は、思うほど普通ではないかもしれない。ミステリファンでなくとも、あらたなミステリとの出会いを、ぜひとも堪能するべきだ。


余談

 ミステリの主人公というのはとかく雨に濡れているような印象があるが、エーレンデュルはいつも濡れている。なぜ傘をささないのだろう? そう思っていたのだが、訳者あとがきによれば、どうやらアイスランド人は傘をささないらしい。

朝に晴れていても傘とレインコートは手放せないのだが、この国の人はだれも傘をささない。傘をさす習慣がないのか、しょっちゅう変わる天気に備えるのが面倒なのか。(P.371)

 そんなところもまたアイスランドの実際に即した物語であったのだなと。

4488266037湿地 (創元推理文庫)
アーナルデュル・インドリダソン 柳沢 由実子
東京創元社 2015-05-29

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