「空と無我」
おそらくは昔購入したさいには最後まで読みきれていなかったと思われるのもあって再読してみた。途中赤線をひいたところもあっておよそ三分の二くらいは読んでいたかと思うものの、最後のあたりは未読だったかもしれないとあらためて思った。
定方さんというと前著「須弥山と極楽」で仏教の世界観というか宇宙観というものをわかりやすく解説されていたのだけれど、今度は言語観についてだ。般若心経など知っていればなんどとなく登場する「空(くう)」あたりなら、多少はなんとなくわかりつつある気もするが、「無我」となるとさて? というところ。
さらには「行くものは行かず」とかでてくると、禅問答かと思うような展開となる。それでも、さまざまな経典であったり、いろいろのエピソードなどをもってきてできるだけわかりやすくといてくれるので、何度か読み直せばあるいはもう少し理解は深まるかもしれない。ただ、おそらく一度読んだ程度では理解にいたるのはやや難しい。
ごく簡単な論としては、「行くものは行く」とすると、「行くもの」ですでにして行くという行為が含まれるので、さらにそれが「行く」という行為をするのはおかしいというようなこと。わかるようなわからないような。「行くもの」という事象がさらに「行く」というようなことはないということか。
ナーガールジュナは「行くものは行かず」ということを主張しようとしたのではない。かれはひとがいう「行くものは行く」を否定しようとしただけである。(P.113)
を見れば、少し理解は深まるか?
なるほど、「無我」という訳語も完全ではなく、しばしばひとを誤解にみちびく。「無我」は「自我がある」という考えを否定するものであるのに、「自我はない」を主張するものであるとひとに思わせてしまうからである。(P.27)
無我ともかかわるかというところで最後のほうでは「我慢」の話がすこしでてきたりする。「我慢」はもともと仏教用語で「自慢する」ということをさしていて、そのようなことはよくないことだという悪い意味、いましめるような意味として使われていた。なるほど、「我、慢する」と読めばおごりたかぶった自分を見るようで恥ずかしいことばでありながら、いまではなにかをじっと耐えるといったよい行いであるという意味に使われるようになってしまった。
ことばは変化していくものではあるけれど、それは仏教の言葉であってもまた同じということなのか。はたまた、それが一般的な日常的なところにおりてきたことばとなったから、そうして変化を生じたということなのかもしれない。
まだまだ、理解したというにはおぼつかないので、また時期を見て再読しなくてはだめかなと思うけれど、なかなか思索的な読書にはなった。
最後に少し長いけれど引用しておしまいに。
ある宗教団体の信者がわたしにいった。「丘の上に立派な家があるとします。あなたはこれをつくった人がどこかにいるにちがいないと思いませんか」。わたしは「思います」といった。かれはいった。「わたしたちが住むこの世界は実に巧妙にできています。あなたはこれをつくった方がどこかにいて、しかも非常に有能な方だと思いませんか」。かれはこの論法で神の存在を証明しようとしたのである。わたしはいった。「わたしは家をみたら家をつくったひとがいると判断します。それは、家はひとによってつくられるところを長年みてきた経験にもとづくのです。しかし、世界がつくられるところをみたことがありません。だから世界があっても、それがだれかによってつくられたのか、自然に存在するのか判断できません」。かれはいった。「こんな素晴らしい世界が自然に存在するはずがありません。これをつくった有能な造り手がいるにちがいないのです」。わたしはいった。「あなたの論理にしたがえば、その有能な造り手が自然に存在するはずがないということになります。この有能な造り手をつくったさらに有能な造り手がいるにちがいありませんね」。かれはいった。「いや、この有能な造り手はそれ自身で存在しうるのです」。わたしはいった。「それなら、なぜ同じことを世界についても考えてみないのですか」。(P.131-132)
空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書) 定方 晟 講談社 1990-05-15 by G-Tools |
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コメント
龍樹の「行くものは行かない」と言う言葉を
言い換えると「死ぬものは死なない」となる。
つまり、不生不滅であるから死後人は輪廻か解脱をすることになる。「行くものは行かない」と言う言葉から、あの世が有ると言えるのだ。
投稿: 名無し | 2022.11.13 12:30