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「新納」は「ニイロ」と読むそうな

 [ 仏像をよみがえらせた男 新納忠之介|NHK 日曜美術館 ]

 冒頭をちょっと見逃してしまった。仏像の修復に際して詳細な図面などを残して、後世にまた修復が必要になったときにきちんとそれらがわかるように、参考になるように、かつてどこが修正されたのかがわかるように、ということも含めてすばらしい業績を残された方らしい。

 で、「にいろ」と聞こえてしまって変だなあと思っていた。「にいの」じゃないのかなあと。ところが、「新納」で「にいろ」と読むらしい。これは読めない。

 欠損してしまった部分をあらたに作るといったときには、図面はもとより違和感のない程度であるものの見た目にもそこが新しく作られた部分なのだとわかるようにあえて作ったというのだった。見分けがつかないように作ることもあるいは可能であったのだろうけれど、それをしてしまうと後に修復を行うときに正しく情報を伝えることができないということから。そういう気遣いがなんとも素敵だった。

 唐招提寺にある千手観音は真数千手といわれるそうで、まさしく千本の手があるのだという。一般には 42 本あまりだったり、たくさんあるように作られるだけで実際に千本というのはないのだそうで。これの修復が大変。どの手がどこにどうあるというのを逐一記録して補修し、その通りに復元していかなくてはならない。

 2000 年代になってあらたな修復がされたそうで、そこでもやはり詳細な写真などを残しつつ作業がされたそうなのだが、時間はかかるし、気力も使うであろうし、もう想像するだけでぐったりしそうな作業だったのだろうなと。

 などなどなかなか偉大な方がいらしたのだなということとともに、現在においてもそうして修復作業に従事される方々がおられるからこそ、かつての姿(あるいはそれに近い姿)を現代においても拝見することができるのだなあと。

 それにしてもニイロと読むとはなあ。

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