ブッダさんのことば
E テレ「100 分で名著 ブッダ」第3回。ブッダはとあるところでもらった食事で食中毒になってその後死んでしまう。が、死ぬ前にその食事を提供してくれた者のことを案じて話したという。
その者が出した食事で死んだのだから罰があたると責めるかもしれないが、それは違うと。最後の食事を与えてくれたものにはきっとよいことがある。それによって涅槃にはいることができるわけで、あらゆる苦しみから解放されるのだから。そのきっかけとなった食事に罪があろうかといったようなことを。
そんなこんなにあわせて上のような図を示して解説。一般の人は功徳にあずかろうと修行している人にお布施をする。修行者は自らを高めようと修行を重ねている。そうした人にお布施をして得たいと思う一般の人の求めるものとは、つまりはお金が儲かることであったりとか、健康であったりとか、そうしたある意味ごく普通の幸せであると。
一方で修行する人はお布施をもらうことを目的としているわけではなく、自らの求める理想へと近づくためにひたすらに修行を続けている。そうした姿にたいして一般の人がお布施をしたいと思うわけであって、それらが逆転してはいけないのだと。
修行のための援助としてお布施をするというのも違うし、お布施を得るために修行をするというのでもない。ところが今はたとえば大学などでも設けることが優先してしまって、研究がその後になってしまっている例もあるやに聞く。昨今世間を騒がせている問題もそのあたりがおかしくなっていると。
お布施する側もそれがどのように使われようとそれ自体は構わないと考えるべきであり、研究者もお布施の有無などに関係なく、自らの目指すところをひたすらに目指すだけでなくてはならない。
このお布施でこちらに都合のよいようにやってもらえないか? とかいうのも間違いであるし、わたしはこれだけの研究をしているのでお布施をくださいというのも間違いであると。
昨今の事情から思えば、それも辛いと思わないではないけれど、本来的にはそうあるべきというのは理解できる。なかなか難しい。
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