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雪の朝

 昔からこのくらい時期にはかならずといってよいほど春の雪になることが多い。長野県では高校入試がこのくらいの時期に行われ、今年もちょうど今日(と場所によっては明日も)おこなわれている。自分のときも結構な湿った雪が降っていて道路は雪におおわれていた。

 ちょうど寒気が久々にはいってきて昨夜から今朝にかけて雪となり、このところ雪のない風景が続いていたのだけれど屋根の上は真っ白になった。道路はさほどではなかったので交通に障害がでるほどではない。長年日記を見ると四年前のきょうもやはり雪はあったようでもある。そして寒かったと。

 あまりにも大きな災害が起きるとしばらくはそれが尾を引いて、あるいはあえて尾を引かせて報道がなされ、あれこれと考えをめぐらせる。折にふれて思いをよせるということは必要なことであろうし、大切なことでもあり、きっとそれをきっかけにしてこの先にあるであろう次なる災害にさまざまな面で考えをめぐらせ対策するということ。

 まだ四年でもなく、もう四年でもなく、今四年と思うことが素直によいのではないかとは思う。まず現実として受け止めるということ。いろいろな思いは抜きにして淡々とまずはそれを受け止める。個々の事象については、まだであったり、もうであったり、さまざまであるはずで、それらはそれら個々として判断するべきことがらであって、あれもこれも一緒にして判断することではないはずだ。

 どうように人は忘れることで生きていけるものであるのも間違いのない事実であって、正しく忘れるということを否定するのはよくない。当事者であれ、傍観者であれ。その事実を記憶のなかから忘れてしまうということはあるべきではないものの、日々の生活のいついかなる時にも忘れるべきではないというのであれば、それは誤った認識なのではないかと。

 むしろ忘れてならないのは、そうしたときにだけは防災意識を高めるものの、なにもしないまま過ごしていないかということではないのかと。家具の固定をしなくてはとなんど思いつつそのままにしているだろうか? 非常食などを用意しなくてはと思いつつはたしてなにか用意しているだろうか? 一度用意しただけでそのままにし、結局食べることもなく使うこともなく処分しているなどということはないだろうか?

 などといろいろ考えるきっかけの一日とするなら、それはそれで有効に記憶されていると思ってよいのではないかなとは思うのだった。

 災害は大小を問わずその後も起きている。御幣を恐れずにいえば、すべての人がひとつの災害にだけ心をよせているというのは実際難しい。だからといってその人はなにも考えていないわけでもないであろうし、誰しもがなんらかの悩みや苦しみを持っているはずでもあるのだ。公にはしないまでも。風化という言葉は軽軽に語ってはいけないのではないか、などとも思うのだった。きっとそれはわけて考えなくてはいけない。

 とまあ、なんだかいろいろ考えてしまう日なのだな。とくになにもしていないわたしは、大きなことは言えないけれど。

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