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昭和史 1926-1945

 ずっと読もうと思いつつ月日ばかりたってしまった。ようやく前半のほうだけ読んだ。内容としては「失敗の本質」などと重なる部分もたぶんにあるものの、あちらがいわば研究論文といった体とすれば、こちらは講談というか講演録というかなので受ける印象はずいぶんと違う。

 そもそも編集さんらが学生時代近現代史というのは結局なおざりにされたままで、よく知らないままであると。だから、ひとつそのあたりの講義をしてはもらえないかということからはじまったらしい。

 ということもあって半藤さんが順に話をしていったものを文字にしたものなだけに読んでいても実にしっくりとくる。つまりは文章が平易であるからということでもあり、話はときに前後したりもするものの、必要に応じて前後しつつ補完しているというスタイルであるがゆえに、むしろそれぞれの出来事の関係というものがよりよくつながってくる。

 その意味においては「失敗の本質」とお互いを補完しあうようなところもあって実に面白い。

 そんなわけだから内容の詳細はほとんど「失敗の本質」と変わるところはないといってよいと思う。もちろん、逐一比較したわけではないので詳細にどうであったかはわからないのだけれど、全体の雰囲気から思い起こすにはおおよそ違いはなかったかと思う。

 最後のまとめから要約だけ記録しておくと。

第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。
二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまたく検討しようとしない
三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害
四番目に、ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかった
五番目として、何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想
昭和史全体を見てきて結論としてひとことで言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。

 原発推進にまい進していたいわゆる安全神話にもにて、「こういう事態が起きると困る。だからきっとそれは起きない。」という論理ですべてが動いていたという愚かさ。ある意味検察が自ら描いた物語に沿うように証拠集めをして裁判を行うとしていたなどということにも通じるかのような。

 まさしく、「失敗の本質」とあわせて読むことでより理解が深まるかもしれない。

 実のところ平凡社ライブラリー版としておまけがついていて、その中にある司馬遼太郎が詳細に調べていたノモンハン事件を結局書かないことにしたのはなぜだったのか? という件がなんとも面白い。ここだけでも読む価値があるいはあるかもしれない。なかなかに運命の皮肉のようなことが起きていて、とうとうモノすることがなかったのではないかという、まあ本人が直接語ってはいないのであくまでも想像でしかないとはいえ、なるほどと納得できることではある。

 また、戦地にこそ行かなかったものの、子供時代を生きた半藤さんだからこそのエピソードもあって、時代そのものをより具体的に感じることができるのも有益だ。もはやこうした事柄を実際に記憶している人々の存在そのものが危ぶまれる時代となってしまったので、このあたりが最後の時代なのだろうと思うと、より貴重な一冊かもしれない。

 さて、残る後半も早めに読まなくてはなあ。

4582766714昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
半藤 一利
平凡社 2009-06-11

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4582766722昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)
半藤 一利
平凡社 2009-06-11

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4122018331失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
戸部 良一 寺本 義也 鎌田 伸一 杉之尾 孝生 村井 友秀 野中 郁次郎
中央公論社 1991-08

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