旗日は遠くなりにけり
祝日というと昔は旗日とも言ったものだったけれど、いまではすっかりそういう表現も聞かなくなったように思う。そもそも旗を掲げる家がまずない。
我が家でも昔は旗日となれば玄関に日の丸の旗を掲げたものだった。特別なにか思いいれがあるというわけでもなく、単にそういうものという意識だけで掲げていたし、周辺の家でも当時としては比較的そういう家が多かった。近年というかここ数十年くらいですっかり様子は変わったようには思う。実際、我が家でももはや掲げることはないようだし、かつてはあった掲揚用の棹をさす金具も、もはやない。
たまたま外に出ると珍しく掲揚されているお宅を一軒だけ見つけた。さほど古いお宅ではないのだけれど、今となっては珍しい。もちろん公民館であるとか公共的なところでは、いまでも祝日といえば日の丸の旗が掲げられていることは多いのだけれど、老齢化を受けてなのかたまに半旗になってしまっていることもあったりして、お気の毒さまと思ってしまったりもする。そもそもあの旗竿が今となっては長すぎるのだろうな。
世代が進み、戦争の記憶も薄れてしまった現代にあっては、もはやそんな旗日という意識も過去のものであろうし、それはそれである意味では平和なことといえなくもない。妙にナショナリズムをあおられて変な意識高揚を目論まれても、それは危険な兆候にしか思えない。
そもそも日の丸の旗なんてどこで買うのだ? というのが昨今の意識かもしれない。さる方面のかたがたであれば日ごろ買いなれたものだろうけれど、一般の者にしてみれば、はてさていったいどこで売っているのだろうか、と悩んでしまうかもしれない。(ちなみにデパートなどだとだいたいあるらしい)
実際、ずいぶん昔とはいえなかなか見つからなくて困ったという話は身近にあるし、そんなあおりもあって我が家にあった旗も今では存在するのかどうかわからない。次第にそうして忘れられていく。確かにそれは平和なことかもしれない。旗の下になにかがうごめいていたら、それはそれであまりよろしくない。とはいえ、きっとそういう動きというのは今でもどこかでひそかにうごめいていそうではあるなあ。
それはともかく。
成人の日は小正月という以外にはあまり意味がなく制定されたらしい。その意味では、現状の移動祝祭日となったのにも許容ができそうだけれど、であればいっそこんな真冬の時期ではなくもう少し季節の穏やかなところへ移動してしまってはどうなのか、と思ったりもする。大雪のなかを振袖で歩く女性の姿とか気の毒以外のなにものでもないのだし。
8 月だけ祝日がないのだから、いっそ現状の 1 月 15 日は小正月の休みとでもして、 8 月に成人の日をあらたに制定したら、省エネにもなってよいのではなかろうか、などとも。
まあ、そんなのんきなことを考えられるくらいには平和であることを、まずは喜ぼうということかもしれない。
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