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宗教観の記憶

 NHK スペシャルで立花隆の臨死体験リポート。心停止したあとにもわずかの時間、弱いながらも脳の活動があることが確認された。利根川進博士の研究で偽の記憶を植えつけることができることを確認した(ちょうど新聞の科学面にもネイチャーだかに論文を発表したというものがでていた)。嘘の記憶でも繰り返すことで、あたかも実際にあったことのように認識することが実験で確認された。死の間際には脳が活動を弱めるとともに活動を強めようとする動きもあって、その中心が古い脳の部分であり、幸せを感じさせる脳内物質(エンドルフィンとは言わなかったけれど、ほかにもあるのでなければそれか)を大量に分泌しているという事実。

 などなど科学的に見えてきた脳と死との関係。心や意識といったものはどこにあるのか、それはなんなのかといったこと。

 で、ずっとこうした事例を見てきて思っていることは、臨死体験とは宗教観の記憶を夢としてみているものであるということ。理由としては海外でのキリスト教が多く信仰されている地域においての臨死体験は総じて光のトンネルを抜けると花畑などきれいな場所にでて、うんぬんというパターンに集約されるが、仏教的な世界(たとえば日本)ではそうしたものはなく三途の川や賽の河原といったものが登場する。

 すなわち多くの場合は信仰によって強い記憶となったあの世観といったものを、死の間際に脳が見せている夢であると。日本人の場合はさほど信仰心が強くないが、信仰の強さとは関係なく葬儀といったものとは無縁ではなく、当然ながら知識としての仏教観といったものは子供でもわりと持っている。しかもそうしたものはたびたび繰り返されることによって思いのほか強く記憶されている。

 たとえばアメリカ人で敬虔なクリスチャンであったとして三途の川や賽の河原を見たということはまず聞かない。誰もが光のトンネルを見る。これはもう宗教観でしかないのではないかと。

 そしてそうした偽の記憶的なもの、はたまた古い昔から延々と作り上げられてきた宗教のような感覚というものはとくに古い脳に影響しやすいとすれば(これはそうとわかってはおらず、仮にそうであるならばということだけれど)、さらに古い脳にはいわば太古の人類の記憶のようなものが断片的に残っていると考えると、そうしたものから生まれる偽の記憶というものとあいまって夢となるということはありうるのではないかなと。

 生まれたばかりの赤ん坊のときに体験したという 4 歳の男の子の例がでてきたが、少なくとも彼がいうそのときの記憶というのが本当にそのときに記憶されたものかどうかは疑問といわざるを得ない。そうとしか思えない内容だからとはいうけれど、さて本当にそれは鵜呑みにしてよいものかどうかと。少なくとも乳幼児の時期なのでその間に両親や教会で教えられたことといろいろなことが混同されて、あらたな記憶として定着してしまいやすいことは大人よりもあるのではないかと。

 いずれにしても臨死体験という体験の中身が極度にその人の宗教観に左右されているという事実はあると思うのだけれど、立花さんにしてそれにはまったく言及されていなかったのが、ある意味不思議だった。

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