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碧いコーラン

 なかなか読めずにいた「コーラン」(井筒俊彦訳、岩波文庫)をようやく少しずつ読み始めたものの、解説で井筒さんが書かれているように「コーラン」を読む通すことはなかなかに困難であるということを実感してしまう。旧新約については読み物としても面白く読める内容になっているのだが、末弟のコーランに関してはそうしたことがまったくといっていいほどないと。

 いやまあそれだけであれば、そもそも経典なのだし面白さを主眼としようということのほうが異端なのかもしれず、あながちそれをして責められるものでもない。ただ、それでもどうにかこうにか読み進めてみてようやく上中下の上巻を読み終えようかというところまできて思うのは、あまりにも他の宗教(兄弟というか兄や姉ともいえる旧新約に対して敵対的なメッセージがこれでもかというほど出てくることへの違和感。

 自分たちの宗教だけを正当なものとして主張したがるというのはとかくありがちではあるものの、むしろ昨今の新興宗教にこそそうした傾向がより強いように思っていた。それがどうかと。ここまであんなものは邪な宗教だと徹底的にこきおろすという経典にはついぞであったことがない。

 ということで、少しそんなあれこれを抜粋してみる。最後まで読むのはまだまだ先になりそうなので。

 汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。そのような者と出くわしたらどこでも戦え。そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ。もともと(彼らの引き起こした信仰上の)騒擾は殺人よりもっと悪質であったのだ。だが(メッカの)聖殿の近くでは、向こうからそこで戦いをし掛けてこないかぎり決してこちらから戦いかけてはならぬ。向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。  しかし向こうが止めたら(汝らも手を引け)。まことにアッラーは寛大で情深くおわします。 (2 牝牛 186-188 節)
 汝ら、邪宗徒の女を娶ることはならぬ、彼女らが信者になるまでは。信仰ある女奴隷の方が(自由身分の)邪宗徒の女にまさる、たとえ汝らその女がいかほど気に入っても。また汝ら、女どもも邪宗徒の男の嫁になるでないぞ、相手が信者になるまでは。信仰ある奴隷の方が、邪宗徒の男にまさる、たとえ汝らその男がいかほど気に入ろうとも。 彼らは汝らを地獄の劫火に誘う。しかしアッラーは汝らを楽園に誘い、御心のままに罪の赦しに誘い給う。その上、何んとか反省させようとて、人間にいろいろと神兆を説き明かし給う。 (2 牝牛 220-221 節)
 アッラーの御目よりすれば、真の宗教はただ一つイスラームあるのみ。しかるに、聖典を授けられた人々は立派な知を戴いておきながら、しかも互いに嫉み心を起こして仲間割れを起こした。せっかくアッラーが神兆をお示しになったのにそれを信じようともせぬ者は・・・、よいか、アッラーは勘定がお早いぞ。 (3 イムラーン一家 17 節)
 アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女は(男にたいして)ひたすら従順に、またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘めごとを他人に知られぬようそっと守ることが肝要。反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ、それも効がない場合は)打擲を加えるもよい。だが、それで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。 (4 女 38 節)
 かつての日本ですらここまで明示的にされたものはなかったと思うのだが。


 信徒が信徒を殺すことは絶対に許されぬ、誤ってした場合は別として。もし誰か信徒を誤って殺した場合には、(その罪ほろぼしに)信仰深い奴隷を一人解放してやること。無論、血の代償は相手方の家族に支払うこと。但し、相手方がそれを自由意志で喜捨するならそれでもよい。また(被害者が)汝らの敵方部族の者で、しかも信者である場合は、信仰深い奴隷を一人解放すること。また汝らとの間に協定関係のある部族の者である場合は、血の代償を相手の家族に支払った上、信仰深い奴隷を一人解放すること。もしそれだけの資力がないなら、二ヶ月間連続断食する。これはアッラーの定め給うた贖罪じゃ。まことにアッラーは全てを知り、一切に通じ給う。
 だが、信徒を故意に殺した者は、ジャハンナムを罰として、そこに永久に住みつこうぞ。アッラーはこれに怒り給い、これを呪い給い、恐ろしい罰をそなえ給う。
(4 女 94 節)

 ユダヤ人やキリスト教徒は、「我らはアッラーの子、その愛し子」などと称しているが、彼らに言ってやるがよい「それなら何故アッラーはお前たちを罪を犯したといって懲戒したりなさるのか。否々、お前らはただの人間だ。(アッラー)のお創りになったものだ。アッラーは御心のままに誰のことでも赦し、御心のままに誰でも懲め給う」と。天も地も、その間にある一切のものも、すべては挙げてアッラーの統べ給うところ。すべてはそのお傍に還り行く。 (5 食卓 21 節)


 それから泥棒した者は、男でも女でも容赦なく両手を切り落としてしまえ。それもみな自分で稼いだ報い。アッラーが見せしめのために懲しめ給うのじゃ。アッラーは全能、全知におわします。
 だが、悪いことをした後でも、立派に改悛して、その償いをする者には、アッラーも(赦しの)御顔を向けて下さろう。アッラーは何でもお赦しになる情け深い御神だから。
(5 食卓 42-43 節)

 なんでも赦してくれるといいつつも、窃盗したら容赦なく両手を切り落とせとは、なんと残忍なと思うのは違っているだろうか。


 これ、汝ら、信徒の者、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするでないぞ。彼らはお互い同士だけが親しい仲間。汝らの中で彼らと仲良くするものがあれば、その者もやはり彼らの一味。悪いことばかりしているあの徒をアッラーが導いたりし給うものか。
(5 食卓 56 節)

 みずからがその陥穽にはまっているのではなかろうか?

4003381319コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)
井筒 俊彦
岩波書店 1957-11-25

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