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憲法第九条 (岩波新書)

 なにやら世界がきな臭くなってきた感があるので、ふと思い出しておよそ 30 年ぶりくらいに読み返してみることにした。刊行当時も世間がなにやらざわざわしていた時代背景だったのではないか、と記憶しているのだけれど正確なところはもう覚えていない。ただ、新書だったこともあって比較的よく売れていたのではなかったかというふうには思うのだけれど、さて実際はどうだったろう。

 およそおおざっぱに要約してしまえば、つまり存在そのものが理念に合致しないのだから、やはりその存在を時間はかかってもなくしていくべきなのだというところ。軍備を持たないことが大事なのだと。つまり、ガンジーとかの主義を国全体としてやればいいのだと。

 詳細についてははぶくとして、そもそも敵対する国が日本を攻撃し、滅ぼしたり占領したりするということにはたして価値が見出せるだろうかというあたりは、まあわからなくもないかと。日本にあるのはいわば技術と勤勉な(というのはことによると過去の遺物かもしれないけれど)ヒトという資源くらいで、エネルギーがあるでもなく鉱物資源があるでもなく、国土の面積からもその人口からいっても他国がどうしてもほしいという理由はまずないというべきだろうと。

 およそ 30 年あまりを経て世界の様子は少し変わっているとはいえ、そういう意味においては今もおなじような状況であるというのは確かかもしれない。たとえば中国が尖閣諸島を狙っているのはそれによって領海を確保することができ、海底資源の開発などに堂々とうって出られるということなどが主目的であろうことは想像に硬くないわけで。なにも小さな島そのものがほしいわけではなく、それによって得られる利権や利便性がほしいのは当然なのだろうと。

 それはまた日本にとって似たような理由が手放さない理由としてあるのではないかと。

 非核とか非武装とか日本が手本を示して世界を変える原動力になるべきでは、というのはわからないでもないものの、ことはそう単純ではないだろうというのもまた想像に難くなく、その最たる理由がおそらくは日本の外交下手というところかもしれない。

 最低限の軍備というのは相手との比較で、どんどん上昇せざるをえないという指摘そのものはまったくもってその通りで、おそらくはとどまるところを知らない。結局は真の勇気を試されている、ということなのかもしれないけれど。

 時代もずいぶん変わってしまったのもあり、かならずしも手放しで支持できることばかりではないかもしれない。ただ、多様な見方というものがなければよりよい選択というものはできないはずで、なにやら危険に満ちた匂いしかしてこない昨今にあっては、むしろあらためて読まれるべき一冊なのかもしれないとも。

 残念ながら絶版。まあ、黄色版なので無理もないけれど。

B000J7NDJE憲法第九条 (1982年) (岩波新書)
小林 直樹
岩波書店 1982-06-21

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追記: 絶版なので一部引用を残しておく。

しかし、第九条の成立をもっぱら右のような偶然の契機の重なり合いの結果だと見るのは、大きな誤りである。そこには日本国民の長い戦争体験、とくにヒロシマ・ナガサキの原爆の受難、サイパンや満州や沖縄のように国民をまきこんだ壊滅的な戦闘、東京を始めとする大空襲の被害等が、生々しい傷口を広げたまま、人々の生活の中に息づいていた。数百万人の犠牲を払いながら全面降伏に至った太平洋戦争のこうした体験を通じて、大方の国民は、強大な軍事力が国民を守らず、逆に国民の生活をも幸福をも奪うものだという痛烈な認識を共有していたのである。あのように馬鹿げた戦争は二度としたくないという日本国民の実感は、まさに憲法九条に具体化されたといってよい。この点からすれば、日本の新しい平和憲法は、敗戦の焼土の中から「生まれ出ずべき必然の運命にあった」というべきであろう。

(P.38-39)

しかし、自衛権は、そのままに”自衛のための実力”を保持することを意味しない。一片の武器を持たない個人にも、奪うべからざる正当防衛権があるのと同じく、軍備のない国でも自衛権は当然に認められるからである。また、正当防衛権があるからといって、すべての市民が、起こりうべき危害に備えて、ピストルや刀を常備するわけではないのと同じように、自衛権があるという理由で、国が軍隊のような武装組織を必然的に持たねばならない、という結論にはならないであろう。

(P.50)

(三)かりに「安保」のきずなを切って、真に自立したとしても、軍事力による「自主防衛」の方向に走るのは、絶対に避けなければならない。日本の軍事拡大は、国民の安全を保障しないだけでなく、果てしのない進行によって、危険な軍事大国に導くであろう。けだし、わが国の軍備の増大に対し、仮想敵国は当然に対抗措置をとるから、どこまでいっても安全感は得られず、むしろ専門軍人の飢餓的な拡大欲を刺激し、無限界な軍備競争にのめりこむことになるからである。わが国ではもともと、産軍結合体の形成をはじめ、軍国主義化に導く要因はかなり多く、軍事力の保有によって生じうる種々の弊害の危険性は、軽視しがたいものがある。

(P.61-62)

すなわち、五十四年十一月鳩山内閣の成立とともに、「憲法は自衛のための軍備は禁じていない」という芦田説が、はばかることなく押し出されるようになるのである。このロジックは、やがて岸内閣の下で(五十七年)、「自衛権の範囲内なら、核兵器も保有できる」という見解にまで飛躍してゆく。”抜き足さし足”の再軍備は、ここにいたって”軍靴の足音”高く、公然たる既成事実となったのである。

(P.68)

政治家や支配階層も、軍人の士気を高めなければものの役に立たなくなると考え、将兵に名誉を与えたり、彼らの功名心を煽ったりする。勲章や軍歌で鼓舞され、児童たちにまで”きょうも学校へゆけるのは、兵隊さんのおかげです”などと歌われると、単純な軍人たちが、自分こそ”国を守る柱石”だと自負するのも無理はない。そうなると軍人は、国民を下に見おろし、「国防」に役に立たない障害者や文弱の徒を無用な人間のように扱い、反戦=反軍のやからは”国賊”だときめるつけるようになる。こういう暴力人の支配のもとでは、人権も文化も押しのけられ、国民は守られるべき対象ではなく、軍の目的に奉仕すべき手段にされてしまう。

(P.167-168)

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