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4488106331樽【新訳版】 (創元推理文庫)
F・W・クロフツ 霜島 義明
東京創元社 2013-11-20

by G-Tools

 本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 昔から創元推理文庫の棚をにぎわしてきた分厚い本の一冊「樽」。「月長石」であるとか、はたまた「賢者の石」であるとか、そうした分厚いなんとなく手に取るのが控えられるようなそんな威容を放つ一冊だったので、その名前だけはよく記憶している。ただ、それだけにというわけではないのだがこれまでずっと未読のままだった。それでいて一度読んではみたいと思ってもいたのだった。

 折りよく新訳の発刊。幸いにしてこうして読むことがかなった。恐らく以前の翻訳はさすがに古めかしいものであったろうから、現代においては格段に読みやすくなったのではないかと比較などできないままにもそう思える翻訳で、当初の予想よりもずっと早く一週間あまりで十分に読み終えることができたのだった。比較的のんびりと読んでいるわたしでも。

 解説によると展開が遅いという評判があるようだけれど、さほどそういう印象はなかった。実に丁寧に描写しているということが、あるいはそういう印象を生むのかもしれない。全体を通していえるのは、さながら二時間あまりの映画でも見ているかのような流れとでもいおうか。事件の発端となるロンドン。そこから捜査が進むパリ。そしてふたたび事件が展開するロンドン。そして、事件の真相があらわになってくるパリ。さながら物語のキーである「樽」の移動を思わせるようなその展開はなかなかに面白い。

 物語のキーとなるのは遺体がつめられて移動した「樽」の履歴であり、その樽に翻弄されていく幾人かの人々の物語であり、樽こそが物語を語っているという側面は否めない。もっとも、それだけに樽の動きそのものが重要な位置をしめるために、このあたりがトリックの主眼のひとつともなっていて、展開の分かりにくさを生んでいるともいえそうだ。

 ただ、面白く読んだものの、いまひとつしっくりとしない読後感を持ったのもまた事実。それが何なのかなかなかうまく説明できない。それは恐らくいくつかの断片的なイメージを伝えることであるいは理解してもらえるかもしれない。

 第一にクロフツデビュー作ということで、恐れずにいえばこれはミステリではない。確かに謎解きの物語ではあるのだが、慣れ親しんだ読者が状況を推理して謎を一緒に解明していくたぐいのそれではないという意味においてだ。言ってみれば突如事件解明に向けて事態が進展し、捜査が進み、証拠がでてきという具合に展開し、そうとなってしまえばこの人物が犯人でしかありえないではないかという展開になる。

 読者はまったくなにもわからないままに物語を見せられていく。とでも言うような感覚。

 第二に、巧みではあるのだがそれがゆえにやや暴走気味な文章。妙に読者を気にして「ではここからは誰々の行動を読者と一緒に追う事にしよう」などといった文言がでてきたり、捜査にあたり警官らが無用になれなれしい言動で聞き込みをしたり、誰かの振りをして聞きだそうとしてみたりといった芝居がかった場面があまりにも多いというところも、どうもしっくりしないのだった。

 それはつまり警察署内などでの言動とのギャップが大きすぎるということでもあり、しかもそういうキャラクター造詣はありうると理解はしても、あまりに皆が皆という展開で、さらにはそれが極端であったりすることからどうも違和感が拭えないのだった。

 第三に、この物語には主人公がいない。そういうといかにも奇異に聞こえるかもしれないが、そうとでも言わなくてはならないような書かれ方がされている。冒頭、埠頭で樽をめぐるあれこれでは海運会社の担当者であるとか、事件の当事者となるフェリクスであるとか、さっそくに捜査に登場する警部であるとかがいりみだれ、最終的には警部あたりだろうかという感じにはなる。が、はっきり主人公といえる人物はいない。

 捜査のためにパリを訪れる警部。パリの警視と同行する刑事との捜査が中盤の長くをしめる。ここではこのふたりあたりが主人公という感じで描かれる。というよりもこのふたりが捜査していくことがすべてだ。

 そして、戻ってロンドン。捜査は一通り終わってフェリクスの犯行に違いないという結論から逮捕され、今度はその弁護にあたるために友人が弁護士を雇う。その弁護士があれこれ調べを進めるのがここ。描かれるのはこの弁護士を主軸にしたものだ。

 さらに、なかなか弁護のための決め手に欠くため私立探偵に調査を依頼し、部隊はふたたびパリに。これが最後の部分だがこの探偵が主人公となって調査をすすめ真犯人へとたどりつくまでが描かれる。

 普通ならばたとえばロンドンの警部が最後まで事件にかかわるような形で描かれて、結末を迎えるといったことになるかと思うのだが、そうではない。最後は探偵によって事件は解決する。しかもパリ警察が探偵に謝罪するなどというおまけまでついていたりする(理由があるにはあるが)。

 これという明確な主人公、物語をひっぱる役目の人物というのが存在しないがゆえに、どうも物語全体が散漫とした印象になってしまうのだった。

 第四に、アリバイ工作に関しても、確かにそういうものとして描かれてはいるのだが、さすがにそこまで簡単にそれが行えるものだろうかと思ってしまう。出来すぎなのだ。文書の偽造はプロなみなのだが、犯人はべつに前科者というわけでもない普通の市民だ。偽装工作にしても一介の人間がそこまで都合よく、上手にことを運べるものなのか、そこまで考えられるだろうか(計画的な殺人ではないがゆえ)と、あまりの都合のよさにいくら小説とはいえいささか飲み込みにくいものを感じてしまうのだった。

 と、いくつかケチをつけるような形になったが、ではつまらなかったのかというとそうではない。十分に物語の展開を堪能したのもまた事実だ。そうした気になる部分があるのは事実だが、一編の映画を見ているかのような時間を過ごせる面白さを持っているのもまた事実だ。これでもかというくらいに畳み掛けてくる状況は一級のサスペンスとして十分。そう、ミステリではなくサスペンスなのだろう。

 言ってみれば謎解きは付けたしでしかなく、ハラハラどきどきする展開を楽しむ。それが「樽」の本質的な楽しみなのではないかと。

 解説になぞらえるわけではないが、冬の夜、樽(カスク)由来かどうかはともかくとして、体を温める飲み物(スピリッツ)など手直においてじっくりとその物語の世界を堪能する。案外、それがもっとも正しい「樽」の楽しみ方なのかもしれない。


樽【新訳版】

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