忘れるということ
日航機の御巣鷹山事故から 28 年だそうな。「九ちゃん、死んだんだよ」と言われて、なんのこっちゃと思ったのも遠い記憶になってしまった。ニュースを見ていると「事故が忘れられてきているようで辛い」といった遺族の言葉があると紹介しているのだけれど、厳しい言い方かもしれないけれど、それは当然でもあり、そしてまた十分には正しくない。
直接現場を訪れる人は減っているのかもしれない。直接の遺族、関係者ということであれば高齢者も多いので、数年前から慰霊登山を諦める人も多いと聞き及ぶ。小学生のくらいの子供を連れてという姿も見たけれど、むしろ事故をまったく知らず、どうしてわざわざこんなところに登るのかわからないという子供も少なくないのではないかと。その意味ではむしろ関係者にこそ記憶の風化が起きているということも実態のひとつとしてはあるのではないかと。
テレビや新聞では毎年そうしたおもだった大きな事故、災害について報じられ、過去の記憶を呼び覚まされる。決して忘れられているとは言えない。もちろん、常日頃から意識している人などは少ないだろうけれど、それは仕方のないこと。人は忘れることで生きていられる。無理して忘れまい、忘れないとすることで苦痛を増す。正しく忘れるということは何よりも大切なことではないかと。
何を持ってして正しくというのかはいろいろ意見はあるかもしれない。ただ、少なくともその時の時間にしばられて一歩も前に進めないような状況はまさしく正しくないといってよいのではないかと。もちろん、事故直後からしばらくの間はそれもまたやむをえない。けれど一年、二年とそのままで多くの人が日常に戻ってもなお「どうしてみんな忘れてしまうのだ!」と怒りを顕わにするようであれば、それは少し違うのかもしれない。
記憶にはとどめながらも日常に戻るということは生きていくうえで必要なことであり、人に与えられた生存するための能力でもあるのではないかと。だからこそ忌まわしき記憶はそれとして、けれどそれに日々捕らわれてしまって何もできないような状況は決して正しくはないのではないかと。悲しむのはどこまでも悲しんでよいだろうし、忘れないという思いもずっと持てばよい。
もしも、それを許さないというのであれば、過去にあった数々の事件、事故を毎日これでもかというくらいに報道しつづけ、すべての人が毎日毎日悲しみにくれてばかりいなくてはいけない日々になってしまう。東日本の震災は? 阪神の震災は? 新潟中越の震災は? 和歌山の豪雨災害は? この頃の秋田・山形での豪雨災害は? 旭岳近辺で起きた高齢者の大遭難事故は? 猛吹雪のなかわが子をかばって死んでいった父親のことは? JR 西日本の列車脱線事故は? 東京大空襲は? 関東大震災は? 過去の富士山噴火は? 日々おきている悲惨な交通事故は? あげればきりのないほど大きな事件・事故は起きてきたわけで、それらすべてを忘れるな、忘れるなと言い続けることは本当に正しいことなのかと。
喪に服するなというのではないし、何もかもあっさりと忘れてしまえ、というわけでもない。悲しみの深さは人それぞれであるし、悲しむ時間もまた大切だ。忘れられるというのが、なかったことにされるというのであれば、それは問題だけれど、そういうことではない。はっきり言って直接関わっていないことについては忘れられても仕方ない。そうして人は生きていかなくてはならない。
だから、ことさらに、一様に、「忘れられている」というある種の妄想にとらわれるのは、そろそろやめたほうがよくはないかなと。忘れることを恐れすぎていないかと。正しく忘れるということは、決して罪でもなんでもないのだと理解することからはじめてはどうかなと。
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コメント
ムムリクさんのお考えはひとつのお考えと思います。
私は、日航については天災ではなく人為的ミスなので我々が何につけ自戒のため忘れないでいるべきかと感じています。
忘れるべきではないと思う人が忘れずにいる、忘れさせるべきでないと真に思う人が忘れさせないように働きかける、それで良くて、人それぞれ記憶すべき部分も違うのだと思います。
ちょっと違うかもしれませんが、福島の被害、マスコミでしばしば報道していますが、どこかに嘘があるような気がして、嫌な気持ちがします。たぶんこの部分がムムリクさんと共通するのではないかと思ったのですが、違うでしょうか。
いつもへそ曲がりな私ですが下記、素直に読んでしまいました。これを読んだのでこちらに敢えてなのですが書かせていただこうと思ったのです。
http://ameblo.jp/takumi-kobe55/entry-11589584049.html
投稿: akiko | 2013.08.13 20:38
わたしも直接の関係者である遺族の方が、何十年何百年であろうとその思いを持ち続けることは自由だと思います。
ただ、すべての人にすべての重大事件事故の記憶を常に持ち続けるべきだといったような風潮で「記憶が失われている」と言われてしまうとしたら、それはちょっと違うのではないかなあと思ってしまうのでした。
恐らくご遺族の方にしてもその事件事故については明確に忘れまいとされているでしょうけれど、では他の重大事件事故についてどれほど心にとめられているのだろうと考えたとき、直接にかかわりのない多くの人々が常日頃はそのことを思っていないことについての許容ということが実感できると思うのです。
問題は常にそれを忘れていないということではなくて、それを教訓として社会や個人がそれを日々経験としてつなげていくことなのではないかと。
歩くときにどう歩くかをあえて考えつつ歩くわけではないものの、たとえば過去の経験で危険性を知った場所は無意識に避けたりするといったことは日々のさまざまな生活や行動にあると思うのです。
さながらそうしたことのように意識はされていないけれど、根底の部分ではそれが意識されて経験としていかされている、そんな姿というのもあるのではないかと。
もちろん、すべての場面、場合においてそうであるとは思えないのも事実だろうと思います。ただ、十把ひとからげのようにもしも「忘れられている」という言葉で片付けてしまうとしたら(これは遺族に関わらず、マスコミとしての報道方針といったものも含めて)それは哀しいことではないかなと。
「忘れる」ということでいえば、「そんなことあったっけ?」というのを「忘れる」というべきだろうかと、ふと思います。多くの人はこうして何十年たってもテレビなどで見聞きすると普段は気にしていないことではあっても「そういえばあの事件あったな」と思い出す。それは少し違う種類の「忘れる」だと思うのです。
だから「忘れられている」という言葉は必要なく、都度「こういう事件事故があったのですよ」と繰り返し淡々と伝えることを続ければよいのではないかと。
多くの人がそうして遠い記憶を一瞬呼び覚まされる。それは確かに忘れているのですが、それを否定してしまうような風潮が生まれるとしたら、避けたいと思うのでした。
投稿: ムムリク | 2013.08.16 15:12