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捨てる人々

 スーパーには謎が満ちていて、たとえばそれは整然と並べられた商品を次々と移動させ、奥の奥にある消費・賞味期限がより先付けであろう商品を探す人々であったり。去ったあとには乱雑に散らされた商品の無残な山が残るのみ。せめて元に戻すくらいの心はないものか。

 きっとそういう人の冷蔵庫にも食品をおいた棚の類にも、すでに消費・賞味期限が切れて一年とか二年とかたっている食品類が山と眠っているに違いない。買うことに満足する人というのは案外多いようで、ある意味こんなによいお客は販売側としてはいないのではないかと。無駄に購入してくれるという意味においては。乱雑にすることの罪は別として。

 野菜売り場にも謎がある。きゃべつの売り場にはたいていダンボール箱とかが置いてあって、無残に捨てられた緑の濃いキャベツの外葉が捨てられている。みなこぞって外側の一、二枚をはいでは捨てていく。スーパーとしたらみなさん高く買ってくださるのだから喜ぶべきなのか。

 なぜ、捨てるのか。その青くてやや固い葉っぱは食べられない部分という認識だからか。けれど、むしろ栄養価も高くて、もちろん食べられるのになぜ捨ててしまうのか。それでいて買ってきたキャベツを一週間も二週間もそのまま冷蔵庫や室内に放置しておいて、いざ食べようと思ったら駄目になっていてそっくり捨てるなんてことをしていないのだろうか、とか。

 誰がはじめたのかはわからないけれど、結局は習慣として考えることもなく行っていることなのだろうけれど、本来行う必要もないことなのに、なかなかやめられない。食べられる部分をあえて捨ててわずかとはいえ高く買ってくれるよいお客さん、なのかもしれない。

 エコな時代なので、きっとスーパーではそれらを飼料にまわしたりということも考えるかもしれない。もちろん、そんなこともなくそのまま廃棄されることも多いかもしれない。飽食の時代は、なかなか終わりそうにない。

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