ケヴィン・ケリー著作選集 2
タブレットで読むようになってからはちょっとした時間に読むというのが楽になったためか、気がついたら「ケヴィン・ケリー著作選集2」を読み終えたのだった。いや、決して早くはないし、むしろ今頃までかかったのかいというくらいの遅さではあるのですが。
で、最後のほうのアーミッシュの話などを読んでいて、そうした宗教というか信条的なものの違いに限らず、人は様々でいろいろな考えや習慣などがあるので、必ずしもすべての人が同じように同じことをする・好むというわけにはいかないのだという当たり前のことを、このごろ改めて感じたことなど思い出したのだった。
たとえばデジタル機器。スマートフォンはともかくとしてタブレットタイプの場合、「コツさえつかめばむしろ年寄り向きですよ」とか CM しているけれど、それはひとつの事実ではあっても絶対的な事実ではないということ。
年齢、性別を問わず、機械ものはとにかくイヤだ、苦手だと耳や目をふさいでしまう人というのは少なからずあるわけで。そうした人にどんなに便利だよとすすめてみたところで、これはもうどうしようもない。
なんとか触ってもらったとして、面白いねとか便利だねと思ってもらったとしても、でも自分はいやだから必要ないという線を越えるのは難しいし、そこまで無理強いすることもないし、無理強いまでするべきでもない。
ことはデジタル機器にとどまらず。たとえば女性に多いのは機械全般であったり、電気とかであったり。目や耳を覆ってしまう人というのは少なからずいる。たとえば男性ならばそれは調理や掃除、洗濯といった家事全般であるかもしれない。
もちろん、そうした人だって時間をかけたら好きになっていくかもしれない。けれど負の力というのはなかなかに絶大なので双方が相当の労力と神経を消耗することになってしまう。子供がイヤだイヤだ態勢にはいってしまった時のことを想像できれば、その苦痛も想像に難くないのでは。全身でイヤだを発する子供のエネルギーというのは、いったいどこから生まれてくるのかと思うくらい。
結局、人は様々なのだから、そのあたりは割り切るしかないのだよなあと。
話がそれた。
全般としてはとても面白く読めた。ただ、もともと本にするという前提とかではないために、それぞれの章の長さがあまりにもまちまちすぎて苦痛に感じたところも否めない。もちろん、この選集はあくまでも達人出版会方面で作られただけなので、著者であるケリーさんに責はないのだけれど。まして無料なのだし。
端末にちょっといれておいて、あいた時間に少しずつ読みすすめるという息抜き的なものとしても、なかなかお勧めかもしれない。
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