枯れた技術
名古屋の映画館で体感型の演出を取り入れたところがあるとのニュース。空気が噴出してきたり、霧が出たり、香りがしたり、座席がゆれたりするそうな。しかし、それが本当に映画館への客足を戻すきっかけになるのかというとやや疑問。
「アバター」で話題になって、これからはもう 3D 映画の時代だ、みたいな触れ込みだったような記憶があるのだけれど、あれは記憶違いだったろうか。今でも 3D 映画はあるようであるし、上映もされてはいるようだけれど、はたして主流を占めているというような状態なのだろうかと。
実際に映画館に足を運んでいない立場としては、その詳細は知らないのだけれど、悪までも見聞きする印象からすれば一部にすぎないという感じがしている。実際家庭用のテレビでの 3D 対応で騒いだのもひところのことで、今はすっかり忘れられた感が強い。
香りというのは昔から課題があって、いかにしてその香りを瞬間のものとして消し去るかが問題だった。ニュースを見た限りではわからないけれど、今ひとつ十分に機能できるかどうかは微妙な感じがする。
もちろん、最初のうちはもの珍しさでお客は増えるかもしれない。それはどんなことでもいえる。ただ、それが継続的に人気をもたらすかどうかは難しい。体感型は面白いけれど、それはアトラクションにしかすぎず、本来の映画を見るという行為がどこかに行ってしまうという嫌いは大きいのでは。
誰も映画の中にはいったように感じたいと思ってみているというばかりではないのではないかと。そういう気持ちになる映画というのもあるだろうけれど、すべてがそうではないはず。そんなときそれは無用の長物でしかない。
博覧会などのイベントとして体感型の上映などがあったりするが、あれはそれだけのものだから成立しているのであって、それが常態化したからといって成功するとは限らないのではなかろうかと。
先のデータ維持ということでもそうだったけれど、結局枯れたアナログな手法が案外生き延びるというのはあるのではないかと。デジタルデータは便利な面が多々あるけれど、その維持には莫大な費用と労力を必要とせざるを得ない。一方で、紙に書いたり印刷したものは火災による消失などはもちろんあるにしても、基本的にその維持管理はデジタルのそれに比べたらずっと簡易なものになるような気がする。
映画も同じで妙に凝ったデジタル的な手法でお客を呼んだところで、一過性にすぎず、むしろアナログな手法の充実こそ本当に求められるものなのではないかなあと。もちろん、その最たるものは映画としての品質というところに尽きるとは思う。
本にしても音楽にしても、とかくネットが広まり、デジタルが広がったために、リアルな書店や CD 店などにお客が来なくなった、買わなくなった、などと理屈をつけたがるけれど、そこに逃げてしまっていたのでは本質的な解決など望めないのではないかなあとも。もちろん、ではどうするといって簡単な解決方法などないかもしれないけれど。
歴史を見れば、少なくとも枯れた技術というのは、一見無駄に見えてもそうそう廃れないのだとも思うし、そうした視点も大事なのではないかなあと。まあ、つらつら思ったのだった。
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