桜の樹の下には
この短編もまた読んだことがなかったにもかかわらず、例の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というフレーズだけは、妙に印象に残って記憶されている。あるいは国語の教科書あたりに載っていたのか? と思ったりもするけれど、そんな感じでもない。
そのくせ「檸檬」にしろ、これにしろ、短編だとわかっていてなぜか読んでいない。薄っぺらなその文庫本の姿から、却っていつでも読めそうな気持ちが生じて手を出すのを後回しにしていたのかもしれない。
今回読んでみて思うのは、「檸檬」といいこれといい、実に似たような作風であるなと。なにやら奇妙きてれつな状況を作っておいて、さあさあとひとしきりブっておいて終わってしまう。
いや、だからそれがなんなのだ? というところで終わってしまう。「羅生門」で黒豆さんにコメントしてもらったように、短編小説というよりは、物語のエピソード、アイデアのひとつといったものをメモしてみたような、そんな感じというのが一番正しいのではないかとも。
ゆえによく分からない。
ただ、なんとも不気味な後味であったり、ぞわぞわするようなものを感じてしまったりする。ある意味、実験小説なのだろうか。
考え方によっては、これらは感受性の強い若い時代にはあまりふさわしくないのかもしれない。そこそこ大人になってからのほうが、抵抗力というか受容する器というかがあって、受け流せる部分というのもあるかもしれない。
そうでもないと、そのあまりに強烈なイメージに襲われて思いもよらぬことになってしまうとも限らない。この手の小説には、あるいはそんな怖さが潜んでいるのかもしれない。
もっとも、わたしのように今頃読んでも、やはりよく分からないということはあるので、なんともいえないかもしれないけれど。
![]() | 梶井基次郎 (ちくま日本文学 28) 梶井 基次郎 筑摩書房 2008-11-10 by G-Tools |
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コメント
この辺の作品だと、「雨月物語」とか、あの辺りをやりたかったのかな?という気もしますね。
昔の作家は、古典に材を取ったりして、けっこういろいろやってますから。
漱石の「夢十夜」にしても、不合理でなんのこっちゃと言ってしまえばそれまでな話だし(^_^;。
ちゃんとした組み立てがあって、起承転結が無くちゃならないというのは、けっこうあとから出て来た小説作法なのかも。
投稿: 黒豆 | 2012.10.16 10:23
それは言えてますね。
今のような小説作法といったものが出来てきた過程のうち、という捉え方が正しいのかもしれませんね。
その意味では、今風なものを期待してはいけないのでしょうね。
とすると、逆に考えると、なぜそのようなものが教科書とかではもてはやされるのか? という疑問もなくはないですねえ(^^;
投稿: ムムリク | 2012.10.16 15:24