« 「魏・卑・日・つ」もろもろの1 | トップページ | 「魏・卑・日・つ」正誤関連 »

「魏・卑・日・つ」もろもろの2

 総論はこちら。 そのほかは、ウソ諸1正誤

■やまなみハイウェー系

たぶん山に興味を持っていた縄文人と違って、一部の弥生人は稲作に適した平野それも海岸の湿地にしか興味が無かったと思われる(かりに湿地族)。(P.47)
海原族は山には定住しないので山地斜面の焼き畑が最適の土地利用となる。粗放的に焼き畑で農業を行い、他の季節は海で仕事をして、畑の収穫期にだけやってくれば良い。(中略)山の水田に湿地族は興味を示さないから長期間留守にしても土地を奪われることはない。(P.48)
 まったく根拠もなく興味はないはずだとされてしまっている。


チハヤブル神とは、チ(道)ハヤ(速)降りる、という意味で、山の、あるいは天(あま)の古道(ハイウェー)から降りて来るヒトという意味であろう。(P.49)

九州山地縦走をした人のホームページやブログを見ると、九州山地の尾根道は現在でも意外に整備が進んでいるようである。しかし「倭の国古道」は世界遺産になった「熊野古道」よりは、遥かにスケールが大きく、山の経験者向けではある。(P.53)
 だが、当時の人々はここを易々とハイウェーとして日々利用していたというのではなかったか。


脚が健康であれば、山道は最高の道路である。大きな川があったり沼地があって行き来しにくい平野よりは、山に上って、尾根道を歩き、山を下る方が合理的である。

 車がなかったアンデスではインカ道(古道)は起伏などものともせず、まっすぐ伸びている。(P.77-78)


 アンデスにおいて平野部に道をというほうが無理ではないか。


その南を、邪馬壱国連合国の伊都・奴・不弥などの南とすると、「その南」とは日田あたりとなるが、その間は英彦山地 E が大きな障害となっているので、両勢力が南北で衝突することないだろう。(P.92)

 尾根道(やまなみハイウェー)を使っているので、山など障害にならないのでは?


大宰府から西都まで倭の国山なみハイウェーの縦走は何日くらいかかるのだろうか。九州の海原族(山男)のレポートを待ちたいところである。(P.100)

 地理屋として著者自ら検証されるとよいのではないか。


以上のことから、川の蛇行が 2 つある国がフミの国となる。蛇行の波長(トロから次のトロまでの直線長)は流量に比例するので、蛇行 2 つ分で国(戸数 1000 余)になる川とは、かなりの大河かもしれない。(中略)橋がなく、渡し船の制度がないときには、とくに濡れては困る荷物を持った人には、川は絶望的な交通の障害となる。(P.206)

 たったふたつの蛇行など、どんな川にもあるかと思うのだが? また、山なみハイウェー(尾根道)があるから川など障害にならないはずでは?


道は大勢が踏み歩くと次第に歩きやすい道になる。ここで感心したのはチは道であり、「千早振る」は「道を速く経てゆく」が語源という著者の卓見である。これは神にかかる枕詞であるが、神を上(かみ)と読み替えると、川や沼地など障害の多いシモ(平野)の道よりは、山道の方が遥かに捷くいけるという意味になる。(P.255)

 どうあっても尾根道のハイウェーを正当化したいと見える。


大きな川に川渡しの制度が整備されたのは江戸時代になってからではないだろうか。日本で車や馬が活躍できなかったのは道が山道だったからであろう。また川には橋がなかったからである。(P.255-256)

 とすると江戸時代までは、全国を行き来するには皆尾根道を徒歩によって歩いただけであったと?


■それは必要ですか?

建国(1963 年)間もないケニヤのナイロビで、カリスマ的な初代大統領ケニヤッタ(1978 年没)が白い払子(ホッス)のようなものを打振ってハランベー(統一)といいながらパレードをするのを実際に見たことがある。(中略)あまり近くから大統領の写真を撮っていたため、私は身柄を私服の警官に拘束されてしまった。幸いカメラを 2 台もぶら下げていたので、私は日本の(有名な)カメラマンだ、ハランベーの大統領を日本に紹介しようとしている、と説明し大使館の世話にもならず、無事釈放された。

 ケニヤは畑作農業(水田もある)を主とするキクユ民族が多数を占めるが、遊牧民マサイまでを含む他民族国家である。(中略)ケニヤはアンデス諸国に次ぐ、私にとって二番目に訪れた大陸国であったが、愚息の嫁さんがこの国に住み込んで社会人類学研究のフィールドにするとは知るよしもなかった。(P.108)


 お嫁さんの話を持ち出したいだけ?


私が東京に来たばかりの頃、千住(荒川区)にお化け煙突と呼ばれる火力発電所の煙突があった。強く圧しつぶされた菱形の頂点に煙突が 4 本あり、見る方向によって、視覚が重なるため 2 本から 4 本までに見えた。つまり方向がある程度わかった。「下町の太陽」の女優さんは素晴らしかったが、太陽は時間とともに方向が変わるので、方位の指標になり得ない。しかし、この煙突は下町の地標(ランドマーク)で、煙突の見える町として親しまれた。(P.112)

 映画「下町の太陽」はまったくの無関係であるし、まして太陽をランドマークとしていたという話でもないはずで、それを引き合いに出すのは失礼千万というものではなかろうか。


なお我が家の最寄りのガソリンスタンドに松浦水軍(本名)という日本人離れした顔の美青年が働いていて、名前の由来を訪ねたところ、お父さんが松浦の出身で、先祖に因んで付けた名前だと聞いている、とのことであった。ウソみたいな話しであるが、これだけはホントである。(図11-2)。

図 11-2 松浦水軍氏の名刺(P.151)


 まったく必要がない。ましてご本人の名刺まで図示して。


「村のわたしの船頭さんはことし 74 のおじいさん 年はとってもお船をこぐときは 元気いっぱい「ろ」がしなる」(武内俊子作詞)(数字は野上が改変)の「ロ」。実にうまい古事ツケであるが、一抹どころか大きな不安もある。(P.210)

 数字を変えて替え歌にしてしまう意味がどこかにあるのだろうか。


津久見湾の入り口には保戸島(179m)と無垢島(テレビドラマの舞台)があり、(P.239)

 「テレビドラマの舞台」という説明はここで必要な情報だろうか。


50 年以上も前のことになるが、大学院生になる仲間と奄美の海岸を歩いているときのこと、農作業をしていた 4・5 人の女性(アマさんらしい)に声をかけられてからかわれた。言葉は分からなかったが、こういう体験は東北地方などでは絶対にない。元気で明るい中年女性たちであった。(P.240)

 「旁国(20 ヶ国)はどこか」という章で、「8 姐奴(シャヌ)国」について書かれている途中でのことである。この部分は本当に必要であろうか? さらに、どうやら東北の女性は覇気がなく暗い人ばかりということらしいが。


五体投地も朝鮮半島では記事となっていないことから、南方経由かも知れない。終戦の日に宮城前広場で多くの人が額を地に付け泣いている写真は何度見ても衝撃的である。他の国なら宮城焼き討ちの可能性がある状況である。オウムの五体投地もテレビでたびたび紹介された。(P.252)

 あれほどの大量無差別殺傷事件を起こしたオウムの例をここにあげるのは不適切ではなかろうか。


ちなみに、東京電力は尾瀬ヶ原をダムにすることはできなかったが、戊辰戦争当時の賊国だった新潟県と福島県に原子力発電所を置くことができた、国の厚い保護のもとで。しかもその 2 つとも地震で事故を起こした。(P.281)

 中越地震における柏崎刈羽原子力発電所のそれは、はたして事故と呼ぶべきようなものであったろうか。


■意味不明

ただし AD0 年は存在しない。紀元前も後も 1 から始まる。したがってこの欄のマイナス記号のついた年数は紀元前ではなく、その前年が紀元前の年数となっている。(P.16-19)
なお氷床コアの専門家で極地研究所所長であった藤井理行氏が同じ南半球の噴火ということで、日本が誇るドームふじコアで探してみる、ということで楽しみにしている。(P.35)
 「ドームふじコア」とはいったいなんであるのか?


諏訪の神はどこかを追われて、諏訪湖の近くに来たとされている。そして船を使った神事や下社の春宮・秋宮の遷座も季節移動が神事になっている。そして建物と全く関係ない柱を立てる。(P.68)

 本章は「九州島の気候」であると思っていたが、わたしの記憶違いだろうか? 神事や祭りに使われるものは建物(神社)と関係のあるものでなければならないという法があるのだろうか。ちなみに神社と無関係なものではないと思うが? ちゃんと調べられたのだろうか。


諏訪神社は 4 つの境内を持ち、その御柱は 6 年ごと(7 年目)に 4 本の柱が立てられるが、これは建物用の柱ではないので、鉾立ての類であろう。(P.284)

 立っているものはなんでも鉾立てらしい。長さはきっちり 4 の倍数なのでしょう。


寒冷な気候下の弥生時代から卑弥呼の時代に国民の「幸福感アンケート」を行えば、最悪の時代だったことがわかるだろう。(P.70)

 仮にそれを聞いたとして、その時代しか知らない民にとってそれが最悪であると比較できるなにかがあるだろうか?


縄文人は守るべき財産をそれほど持っていないので、半年故郷をあけても平気である。除雪を全くしなければ、たいていの家は雪の重みで潰れる。冬の間中除雪し続けて家を守るか、ほっといて次の年にまた造るかの選択である。よほど労力をかけた家でないかぎり後者に決まっている。柱などは地面に並べて置けば良い。(P.71)


農業をちょっとやってみれば分かることだが、農業とは雑草との戦いである。水と陸を切り変えることで雑草の繁茂を防げる。両方の環境に適応している雑草はほとんど無いからである。(P.71-72)

 雑草を防ぐために水をいれたり切ったりするということでよろしいでしょうか。


逆に川の生物はどうか。海に降ることのない淡水魚も水系ごとに孤立しているように見える。しかし海面が 125m も低かった氷河時代には隣接流域は現在の大陸棚で合流し 1 つの流域だったことがある。このように川が繋がっている限り、分水嶺の陸地は障壁にならない。(P.77)

 意味不明。


卑弥呼は婢千人を侍らせた、とある(魏p.49)。一戸 5 人として、うち 1 人が第一次生産に関わらないサービス業、これは経済原則に反する。(P.105)

 現在の経済観念を持ち出したところで、あまり意味はないと思われるが。


神社には鳥居がある。赤いことが多いが、これは”鳥居を実用的に”使っていた人々が好んだ色だからであろう(図13-1)。鳥居には白木のものもある。(P.180)

 好きな色だったからという理由は以降も一切でてこない。


山が信仰対象であるとき、神社(拝殿)があってもなくても鳥居は必ず、山体の方向を示しているはずである。というよりは、海原族は山に向かって、船の鳥居と同じで、もっと立派な鳥居を陸地に立てたいのである。(P.180)

 「船の鳥居」とはなんですか?


日本語を上品語と下品語にわけると、促音は下品語の方である。(P.214)

 下品語?


「触れ」という村名があるのは、日本ではここと朝鮮半島だけである。(P.217)

 朝鮮半島も日本であるということでよろしいでしょうか?


一大国の名前を壱岐国に直しながら一大卒を壱岐卒にしないのはおかしい、というより、一大卒がそのままなら、一大国もそのままで良かったのである。だから一大国の倭名探求はこれで終わりとする。(P.218)

 なんとも子供の言い訳のような論理ではないか。


かまボコ(串刺し)、これが板だとイタカマ、笹カマもある。鷹鉾は同じ鉾でも鷹狩りの時、鷹が止まる棒、尖っていては止まれないから、何か工夫があるのであろう。なお大工さんが使うカラス口は墨糸を張る道具でこれとは関係がないだろう。(P.262)

 唐突に無関係な烏口を出して、「関係がないだろう」というのは、何の意味があるのか?


一文字で納まらないときはシャ文字(しゃくし?)とかユ文字(ゆかたびら?)とかいってあくまで一文字にこだわる。(P.269)

 意味不明。


信濃川・阿賀野川(新潟県・福島県)の水利権は地元にはない。信濃川の発電利用権は全て(旧)国鉄のものである。新潟県内の信濃川には水はない。トンネル-発電所-トンネル-発電所、という連鎖で川の水はトンネルの中を流れている。最後の発電所小千谷の下流でようやく大河信濃川らしい河況となる。(P.280)

 あの河の流れは幻であるらしい。


投げ奴(香川)という呼び方をみて思わず笑ってしまった。槍などを投げ合って受け取る所作をしていたのであろうが、水田の仕事では本当にものを投げ合うのである。田植えの時、苗を投げて配る。稲刈りでは稲束を 1 つずつ束ねるごとに、運ぶ人の所まで投げるのである。また稲木に架けるとき、下から稲束を投げ上げて、上の人に受け取って貰う。稲束投げは稲刈りのとき、使わない筋肉を使うので、リラックス体操のようなものである。(P.287)

 ごく普通に行われている作業かと思うのだが。また、最後の一文は必要なものだろうか。


■鉾

弓矢は狩りと戦争で共用できるが、刀や鉾は戦争専用である。最近では核分裂を利用した兵器は戦時を想定した脅かし専用として認められているが、継続的利用・平和的利用もやはり危険ではないかという意見が広まっている。(P.71)
 本論とはまったく無関係でもあり、さらには「鉾は測量道具である」と言われてもいるのだが。


測量に使う鉾は武具が起源であるが、平和な時代になると杖になる。先が尖った宝珠が付いた錫杖である。鉾立山の他に杖立山という地名もあることから同じ用途であることが分かる。修験道では杖を持って山に登る。鉾も杖も宗教的な意味合いがあり、その神秘的な使い方として国見(測量)があった。鉾や杖は権威の象徴でもある。エジプトの古代の像にも鉾のような頭部(パピルスは玉房状)の杖を持った人がいて、古代の測量にも杖が使われたのではないかと想像できる。(P.188-189)

 「神秘的な使い方としての測量」というのがよくわからない。また、エジプトのそれは杖ではなくロータス(蓮)の茎を持っているだけではないか(もちろん明らかに杖と思われるものも描かれているが、それは玉房状ではない)。


鉾と測量と祭事:(この項目内全般)(P.284-287)

 鉾は測量のためであると力説されているのだが、そのような利用方法を否定はしないものの、そのためだけであるという説明にまったく納得できるものがない。津島市の祭りの記述からも測量のためだとわかるといった論を展開されているが、まったくそのようには読めない。


魏志倭人伝の行程・方位・距離の記述を無視し(それなら邪馬壱国も無視すれば良いのに)、倭国の首都伊都国から遠隔の田舎国(邪馬壱国・投馬国)だけを近畿に持っていこうとするいわゆる邪馬台国近畿説は私の合理性指向精神を超えている。(P.97)


つまり、末蘆国→東南(N105E)陸行五百里→伊都国、というルートは、実は帰路の行程を往路のそれと勘違いして方向を書き換えて記述していると推定され、帰路は、伊都国→西北(N75W)陸行五百里→末蘆国の港、でなければならない。さすがの陳寿も内陸国の人であり、北九州と朝鮮半島のあいだの海と風を知らなかったらしい。行きと帰りの港が同じだと勘違いしている。多分実際に旅行した魏使は行程をそのまま報告したが、陳寿の文章は簡潔を旨としており、帰路の行程を省略したために、このような誤った記述となったと推定される。この部分は魏志倭人伝のなかで、陳寿の唯一のミスではないかと思う。(P.153)

 方位の記述が誤っているのではないかといって読み替えてしまうのは間違いだとかおかしいと言っている著者が、こうしたことをいうのは、単に自分の考えに合わないからということで、それらと同じことをしようとしているだけとは言えないだろうか。


以上のように壱岐国-末蘆国-伊都国/「津」の位置関係は原文を改変することなく、陳寿の思い違いを 1 カ所解釈しなおすだけで、合理的に解釈できた。(P.158)

 その思い違いが著者の思い違い(思い込み)でないという合理的な解釈ができない。


もちろん逆のケースもあり得るが、方向や里程が記載されていれば、辻褄が合わなくなる方が誤りである。合わなくなったからといって、方向や里程の記載が間違っている、とするのは本末転倒である。(P.271)

 ご自身の胸に手をあててよーくお考えいただきたい。本末転倒なことを著者もされているのでは。


ニニギノミコトが豊葦原中国(筑後川の平野)を目指して、高千穂の峰(火山)に降臨したのはちょっと方向違いで、南九州のどこかの国の建国神話を、ヤマトの国の神話として利用したのであろう。(P.191)

 自分の論に都合の悪いことは方向が違ったのだとか、思い違いといったりするのは、けなしている近畿説などの論と同じことなのではなかろうか。


つまり方向も距離も旅行中にそれを知る方法は全くないのである。先人が何らかの方法で測って知られている値を教えて貰うしかほかに方法はない。(中略)つまり距離や方位の測定者は旅行者ではない。こんな当たり前のことに気がつかずに、魏使になったつもりで山道にそって距離を測っていた(第 6 章)のわれながら愚かなことであった。(P.111)

 なぜ旅行者が測定できないのだろうか。というかなぜ単純に旅行者としてしまうのか。さまざまな調査・測定をしながら訪ねていったとしても不思議はないではないか。そのために見た目よりも日数がかかっていたという考え方も可能ではないのか。でなければ、誰も測定などできないという論理にもなりかねない。


歩きながらでは距離は測れないので、陸上での距離すなわち 2 国間の距離は直線でしか扱えない。しかし倭国側では直線距離を測る技術が無かったか(あっても秘伝とされていたので)、一般的には時間距離で表したわけである。(P.137)

 なるほど「秘伝」だったのですか。


5 倭の地(九州島)は周旋五千余里(魏p.50)とある。(中略)周旋とは外接円の直径であろう。もちろん壱岐島の例にあるように、方でも良いはずである。しかし周旋を使ってみたかったらしい。(P.142)

 「使ってみたかったらしい」?


魏志倭人伝に出てくる方位は、南・北・東と東南の 4 方位だけである。東夷伝の他の国についてみると、8 方位の全てが揃っている。角度を 2 分することはやさしいのに、16 方位は使われていない。日本や中国では 12 方位系も使われてきた。8 と 12 の最大公約数は 4 であるので、東西南北の 4 方位はお互いに相当させることができるが、斜め 4 方位については例えば東南は辰巳(しんし)の中間方向で、巽(たつみ)などとしているのは八卦の方位である。また北・玄武・黒、東・青龍・青、南・朱雀・赤、西・白虎・白という風水思想に関係する方位も取り入れられていないようである。(P.112)

 何をいわれたいのだろうか?


これだけ広域にわたって使われる方位系が定義なしでは困るので、根拠を探すことにした。文献からではなく、試行錯誤的に判明したことは緯度 35 度付近(東京・大阪・釜山・光州・洛陽・西安など)で、夏至(太陽暦の 6 月 22 日頃)の太陽が出る方向(N60E)を東としていることが分かった。これは 12 方位のまさしく寅の方向である。(P.123)

 根拠の理由が以降もまったくでてこない。


唐津市マツロ館館長の堀川義英氏のお話しによると、唐津(藩)と違う習慣として、佐賀平野(藩が違う)では場所を教えるとき、方位を使うという。佐賀平野で最もわかりやすい地標は天山(1045m)である。そしてここが北であり、寒い風が吹いてくる方向でもある。地図を見れば明らかであるが、天山の S に佐賀平野はない、SE である。佐賀平野の人たちの方位感覚は北が西に偏っている(変則方位系である)ことがわかる。(P.129)

 暮らしのなかで厳密に方位を言うことや、捉えていることはないのでは。方位を西よりに捉えていたという傍証が欲しくて、そうした例ばかり集めているともいえるのではなかろうか。


ソウルおよび近郊の都市ではいろいろな方位の街区が入り交じっており、歴史の重みを感じさせる。中国の方位系の変遷については街区という化石と文献があるので、磁北の経年変化、歳差運動(北極星の位置変化)を視野に入れた研究があると思われるが、深くは追跡しなかった。(P.130)

 大陸の都市においてはさまざまな方位系が存在すると認めながら、日本ではそれを認めないのだろうか。先の佐賀の例でいっても西に偏った捉え方が卑弥呼の時代から変わらないのだとどうして言えるのだろうか。さらには、自身の論を証拠づける研究があると思うのであれば、なぜそこはあえて追求しないのか。


倭人は里数(距離)を知らず、日数でいう(隋書倭国の冒頭)と記述されている。ただしこの記述を後進性の表現と見てはいけないだろう。起伏に富み複雑な地形に作られた道を「歩いて行くだけ」であれば、距離よりも時間(で表す)距離のほうが有効である。(P.114-115)

 現在であっても目的の場所への距離で話すよりも、車で何分であるとか、歩いて何分とか答えたり考えたりすることのほうが自然であったりはする。


しかし歩いているうちに方位はたちまち分からなくなる。太陽の方向と(時計はないので)疲れ具合から(?)南の方向は何となく分かるかも知れない。(P.115)

 著者は疲れ具合で南を知る事ができるらしい!


ほぼ SW 方向に伸びる南西諸島はこの海原族方位定義に従えば「西」諸島ということになる。長崎県などに多い苗字「西」さんは本当は「南西」さん、である。(P.119)

 どうやら「西」さんというのは偽名を使っているらしい。


中国が設置した、あるいは立地に関与した古い都市である通遼・遼陽・平壌(楽浪)・ケソン(開城)・ソウルは見事に一直線上に並んでいる。方向は N150E である。つまりこれらの都市間の距離を X、北極星高度の観測などによって知られる南北(N-S)距離成分を D とすれば、X=D×2/√3 である。さらに、チンハイ(鎮海)そして倭の博多・西都などもこの線の延長上に位置している。偶然とは思えないほどの一致である。(P.128)

 突然に書かれていて、以降だからどうだという話はない。それらが一直線上に並んでいるからといってなんであるという説明はない。


次に人口構造物(都市)の立地に付いて述べる。もちろん偶然も入っているが、規則性があまりにも見事な場合は統一した意図によって立地を選んだと解釈する方が自然である。瀋陽 M・本渓 O・平壌(大城山) P・ケソン・ソウル Q・チョンジュ(清州) R・カヤ(伽倻)山 I・チンヘ(鎮海) S・対馬・壱岐・唐津はほぼ一直線に並んでいる。(P.192)

 すなわち対馬や壱岐という島までもが直線状になるように配置されたという理解でよいでしょうか。そもそも直線上にあるということにどんな意味があるというのか?


さすがに当時の先進国中国である、距離測量の精度は非常に良い。朝鮮半島全体を彼らの距離尺度で正しく捉えている。こんな国からの使節団は、半数以上が地理の知識・技術(測量術・土地の性格を把握する術など)を持ったスパイかも知れない。こんな連中に国中を自由に旅行されたらたまらない、伊都国に留めておこう、ということになったのだろう。(P.143)


元には風や海や山を熟知した参謀・軍師(古代の地理屋)がいなかったので無謀な攻撃をしかけ失敗した(我が国は助かった)のであろう。(P.218)

 あれほど当時の中国ではすでに高度な測量技術などがあったと誉めそやしていたのは、どこのどなたであろうか?


このように韓国も北九州(図 13-10)も地標には事欠かないので、どこかで距離測量が行われれば、上記の特殊三角形網を使って次々に距離の計算か可能となる。九州島についても直角三角形となる地標(山)を地図上で探すことができる。(P.194)

 そもそも既に地図があるからそれを確認できるだけとはいえないのだろうか。


■その他

元祖は火山の富士山であろうが、岩木の富士、蝦夷の富士、タコマの富士、チリの富士まである。讃岐の富士は形が似ているだけで火山ではない。もちろん福知山も火山ではない。それらを含めて、富士山という地名は多い。そして富士山の元祖は火山ではなかった。(P.4)
 多いのは「富士」がつく地名ではないか? また、富士山の元祖が火山ではなかったというのは正しい表現ではないのでは。後で述べているのは、富士という名前の由来がとある神社の名前に関係するらしいということであり、山そのものが火山ではなかったと取れるような表現は違うのではないか。


魏志倭人伝のデータは約 2000 字で記述されている。データが少ないほうが考えられる、というより、考えざるを得ない。これが民間歴史家に人気がある原因であろう。ついでながら地理屋といい歴史家という。合わせて家屋である。(P.6)

 短いことで取り組みやすいという面はあるとは思うが、はっきりしたことがなかなか分かっていないというところにロマンを感じる人々が多いということでは。また、「家屋」については意味不明である。


専門家はこのような年表はせいぜい継体天皇くらいまでしか作らない。それがプロの矜持だと思っているかのようである。しかし年表を作らなかった時代についても言及している。これはちょっと矛盾している。年表は歴史を理解する手段として優れている。地理の地図のようなものである。アマチュアはこれを神武天皇まで作る。間違っていても恥ずかしくないから恐れることはない。(P.15)

 「それがプロの矜持だと思っているかのようである」これは失礼な物言いではないのか。「間違っていても恥ずかしくないから恐れることはない」というのもなんとも傲慢に感じる。


ただしこの記事はあやしい。武烈天皇の死去が 12 月であるのに、継体天皇の即位が翌年 2 月であるのは不合理である。後継の天皇選びで、最初の候補者に逃げられたりして、いろいろやり取りがあったと記事にされている。即位は 508 年か 509 年ではないだろうか。ここで武烈天皇の記事は後世から見て日本の正史としてあるまじき内容であると判断した。(P.25)

 自分の考えと違うからといって「日本の正史としてあるまじき内容である」とまで断じるのはいかがなものか。


仁賢天皇の即位は補正 498 年、死去は補正 508 年となる。ここで継体天皇即位の 507 年を越えているが、前述したように継体天皇の即位は確実に 507 年より後であるので、気にしない。(P.25)

 自説に合致さえすれば関係ないと?


つまり垂仁天皇在位期間のうち、c28 から c6 までの 39 年間が実質期間で、後半の 60 年分は景行天皇の在位期間と重ねられている。(P.31)

 あくまでも想像。


つまり行きには乗客が減った船を運航し続ける(ばかばかしい)か、あるいは帰りに満船になって投馬国から乗船できないという事態が生じる。

 現在新幹線指定席ではこのようなムダが生じないように区間予約制としている。(P.93-94)


 なぜ、現代のシステムと同じでなければいけないのだろうか? 帰省ラッシュというほど人が行き来していたかどうかも不明であるし、そうでなかったと言い切れるほどの根拠が示されているわけでもない。


日本の縄文土器とエクアドル(赤道国)の土器の類似性が指摘されている(古田武彦氏の著書)が、気流や海流を考えれば、エクアドル→日本はあり得ても、日本→エクアドルはない。(中略)焼き畑はアンデスでも見られるが、日本から伝播したものではない。(P.123)

 アンデスあたりにもモンゴロイドがいるはずで、どちらがどちらにというのはともかくも、あまりに単純に「ない」と決め付けすぎてはいないか。


魏志倭人伝では、郡→七千余里→狗邪韓国 と記述されている。この部分の漢文の読み方に問題がある。「郡から倭に至るには(まず)海岸を廻って水行し、韓国を歴て、南行と東行を繰り返しながら、その(倭の)北岸である狗邪韓国に至る」。ここで段落を切って、「(帯方より)七千余里にして、始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る・・・」(2 章原文 3. と 4.)と私は読んでいる。(中略)岩波文庫本の読み下し文では、「その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る」として、航路の長さを七千余里とする読み方となっている。講談社学術文庫本では私と同じ読み方となっている。(P.135)

 同じことを言っていると私には読めるのですが。


しかし原文を読み返してみると、自分で勝手に作った謎ではあるが、それが解けた。刺史の如きと形容された一大卒という武力が記述されている(魏p.48)。卒という字に惑わされてはいけなかったのだ。これは帥(呉音ソチ、漢音ソツ)であり、一大卒とは元帥である。つまり大陸側の官名職責がすでに倭国側にあったことになる。(P.215)

 まさか一大(学校)卒(業)とでも読まれていたのだろうか?


1 章で述べたように、日本書紀では神功皇后を卑弥呼に当てようとして年代を操作している。これはもちろん外れであるが、(P.289)

 外れというのは、「神巧皇后を卑弥呼に」なのか、「年代を操作」なのか、はたまたその両方なのか?


魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」自賛、親切、ウソ編: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」もろもろの1: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」もろもろの2: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」正誤関連: つらつらぐさ

|
|

« 「魏・卑・日・つ」もろもろの1 | トップページ | 「魏・卑・日・つ」正誤関連 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/28835/55678388

この記事へのトラックバック一覧です: 「魏・卑・日・つ」もろもろの2:

« 「魏・卑・日・つ」もろもろの1 | トップページ | 「魏・卑・日・つ」正誤関連 »