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「魏・卑・日・つ」もろもろの1

 総論はこちら。 そのほかは、ウソ諸2正誤

■執筆姿勢

そのような次第で、この本は学術書のつもりはなく、科学的随筆というようなスタンスで執筆した。根拠のない想像・空想を語っている部分もある。(P.5)
 想像や空想は結構だが、それらが区別なく書かれていることには、大いに疑問を感じる。


地理屋は体験し観察するために考える足でなければならない。(P.6)

 実際に歩いてみてというつもりで、あえて「葦」ではなく「足」とされたのだとは思うが、全体を見ると決して歩かれたとは見えない。


魏志倭人伝など中国正史とされる歴史書と比べると、的確に表現するのは難しいが、しまりがないというか、だらしないというか、とにかくキビキビしたところが何もない文章で、どうでも良いような内容が語られている、という印象をうける。(P.37)

 そっくりこの本にお返ししたい。


潮来市では、あやめ祭りの期間中に艪船による一丁艪の観光船を運行している。(中略)問い合わせに親切に答えていただいた潮来市(茨城県)市役所に感謝したい。(P.64-65)

 謝辞はぜひ冒頭なり、おわりの部分でどうぞ。


文禄・慶長時代の秀吉軍の渡海・帰国の月(日)が文書で検証されれば、航海の季節についての私の読みの当否が判定できる。(P.66)

 ぜひ、検証してからここでご披露いただきたかった。


一年の大半をフィールドワークに使っている研究者の話だから説得力がある。(P.77)

 その論でいえば著者は・・・


(何しろ古事記の神話や魏志倭人伝で夢を馳せていることでもあるので、話題があちこち飛ぶことはお許し願いたい。今後も)(P.202)

 インタビューや生放送で話しているのであればともかく、このように思いつくままに書き散らしたままの文章が、そのまま出版されるというのは許容されることだろうか。


このように地名の語源を探る作業は私にとって専門外のことであるので、道を踏み外していないことを願っている。(P.206)

 その割には見事になにごとによらずきっぱりと断定なさっているが。


以上の記述にしたがって図 17-3 を作って見た。全体として見ると最もらしいが、1 つ 1 つ根拠は? と問うとかなりあやしい。読み方も確かでない国名だけから、こんな図ができるわけはない、という読者は無視して下さって結構である。(P.245)

火事に野次馬はつきものである。ヤジはなまりで、もとはヤチ、つまりヤチ(沼地)の馬のように、そこに居ても役に立たないことが語源だという(ホント?)。この本の著者のように年を取っているのに、興味をやたらに持ちたがる浅はかな馬を野次馬というとしたら、困ったことである。(P.283)
 本当に困るのは、妄想と現実の区別がつけられないことではないか。


この本で、方位・距離・測量以外の記事は、もとより私の専門からかなり離れた分野のことであり、読者の皆さんはそのまま信用しない方が良い、と思われる。そういう考えもあるか、という程度にしていただけるとありがたい。もちろん誤りの指摘は歓迎である。この本は地理や歴史の専門書ではないので、そのような書き方(文献の引用など)にはなっていない。へたくそな科学随筆だと思っていただけるとありがたい。(P.295)

 妄想と現実の区別がつかなくなっている文章や思考、論理のよくわからない文章、そしてそうしたことがまったくといっていいほど編集されていないのではないかと思われるまま出版されたことを思うと、これで対価を求めてよいのかと思うのは間違っているだろうか。

 いっそ小説にされたら良かったのではないだろうか。


■科学的?

外国の地図などについては Google Map を用いた。また 2 種のブラウザを使って隣り合わせの 2 枚の写真を同時にディスプレイし、その間隔をマウスで調整してステレオ視することも行った。(P.8)
 そのようにしただけではステレオ視はできないのだが。


「8 尺の棒を立て」などという記述があったとき、直角三角形を利用しているな、とピンとこないで、なぜ 8 尺なのか、前例はないかなどと文献を探すのは時間の無駄である以上に科学を無視した行為である。科学史でない限り、それが真理だと認められたときは、出典を示さないのが科学のやり方である。f = m a (力・質量・加速度)の公式をニュートンの名を挙げずに使うことがニュートンへの尊敬を表している。(P.16)

 たまたまそれに合致するだけでは絶対的に直角三角形を利用していると断定する根拠とはなりえないのでは。まして、科学者でもなく歴史や考古学の専門家が論じる際に、そこに気づけなかったとして、それは「科学を無視している」行為だろうか? 著者はなにかにつけて短絡的に決めてつけてしまう傾向がある。「ニュートンへの尊敬を表している」も理解不能だ。


なおここでノーモンの長さを区切りよく 6 尺(歩または間など)とせず 8 尺としたかの理由を考える。
8 尺に加えて 6 尺、10 尺の長さの辺で三角形を構成すると、エジプトやギリシャですでに知られているように、この三辺の長さ(比は 3:4:5)は直角三角形を作る。したがって、錘で 8 尺の辺を垂直に保てば、6 尺の辺(つまり目盛板)は水平になる。これは相似三角形の問題であるので、例えば、40 尺の辺を垂直に保てば 30 尺の辺が水平となり、50 尺の辺が斜辺となる。つまりノーモンの長さを 8 尺としたことは、この直角三角形のことを知っていたという強力な傍証となる。(P.173)

 なぜ垂直方向の比率が 3 ではなく 4 でなければならないのかという明確な説明にはまったくなっていない。


垂直に立てた棒(ノーモン)の影が一番短くなる方向が北であり、ここを基準にして時刻が計れる。(P.170)

赤道上に太陽がある場合、北緯 35 度付近で、8 尺(80 寸)の棒(ノーモン)の影が s 寸だとしよう。(P.172)
夏至の正午に 8 尺(80 寸)の棒(ノーモン)の影の長さは 36N で 17.74 寸、35N で 16.28 寸である。(P.173)
なおここでノーモンの長さを区切りよく 6 尺(歩または間など)とせず 8 尺としたかの理由を考える。(P.173)
つまりノーモンの長さを 8 尺としたことは、この直角三角形のことを知っていたという強力な傍証となる。(P.173)
ピンホール付きノーモン:(P.173)


 棒のことを「ノーモン」と呼ぶらしいが、それがなにを意味するのかの説明が一切ない。恐らく専門用語なのだろうが、ノーモンという言葉を使わなくてはならない特別の理由がないのであれば、「棒」のままでいっこう問題ないと思われる。事実、ノーモンと言ったり棒と言ったりと表記そのものも揺れている。なぜ、そこまで「ノーモン」という言葉に固執するのかがわからない。


古代人が具体的にどのように角度を測っていたか、それは考古学や文献学の問題である。ここでは原理と可能性を示すだけで十分であろう。(P.179)

 原理と可能性さえあれば、実際どうであったかは無関係だということだろうか。自説を展開する以上は、現状においてそれらがどう捉えられているのか、考えられているのかくらいは調べて当然なのではなかろうか。


しかし初等教育で習うような基本的な図形の面積を公式で計算することはあまりない。とくに円の面積の公式など実用的に必要になったことは一度もない。もし必要になったとしても、円に外接する正方形をつくり、正方形に方眼をかけ、円内に落ちる方眼の数を数えればよい。もちろんこの面積測定法にはどんな不規則な図形でも面積が測れるという汎用性がある。(中略)幾何学では円、方形、三角形などの面積の公式は教えるが、不定形の図形の面積を求める方法を教えない。これはコンピュータ時代に必要とされる数学として時代遅れである。(P.194-195)

 ちまちまと何千とあるような方眼の数を数えるよりも(ある程度正確にとなれば、おのずと方眼の升目は小さくならざるを得ない)、公式で計算したほうが遥かに簡単にできる。あくまでもそれは不定形での方法のひとつにすぎないわけで、公式などばかばかしいという論にはならない。最後の時代遅れにいたっては、意味不明である。


昔アンデス地帯学術調査団(泉靖一団長)の考古学班に参加したときのことである。(中略)リマの大学で岩絵の拓本を見せられた。もちろん解読できるわけはないが、「大」の字のような形があった。そこでこれは人が手足を広げて立ったさまで、大きいという意味の字だ、またそれをそばめれば小という字になると説明して、大いに感心されたことがある。壱岐の島の形は大の字に似ていないだろうか。(P.214-215)

 「解読できるわけではない」が「大きいという意味の字だ」と断定されたのですね。かりにも学術調査であるにもかかわらず、嘘八百を述べて「大いに感心された」と自慢するとは、なかなか立派なお方のようだ。


まず天の岩戸神話で想定されると思われる日食について述べたい。日食を予知して予め人が集まっていたのでなければ歌えや踊れやの大騒ぎをする時間がない。食が進行し始めてから人が集まるのでは人が集まるころには日食は終わっている。日食それも時間の長い皆既日食でも食の開始から終了まで最長でも 1 時間半程度である。皆既日食あるいは部分日食でも当時は予知できていないだろう。以上のことから天の岩戸神話と日食は関係ないことが分かる。

 それでは太陽が隠れるほどの自然現象とはなんであろうか。それは火山噴火しかない。(中略)一回きりのイベントだと大騒ぎになるが、このような噴火はある期間にわたり繰り返し起こるので、地元の人たちは、いわば噴火・降灰に慣ている。毎日雪が降るところでは災害が起きないが、たった 20cm 程度の積雪でも、東京のように 20 年に 1 度くらい以下の確率だと、大災害になる。これと同じことである。近間(ちかま)の火山噴火であれば、原因は簡単にわかるはずである。
 このことから天の岩戸神話のいわれを探れば、日本以外のどこかでの火山が大爆発し成層圏に火山塵が達し、太陽がダストに遮られ、気候が 1 ~ 2 年間寒冷化するような遠間(とおま)に原因のあるイベントではないかと思われる。(P.66-67)


 そもそもが神話の話である。明確にいつの出来事というわけでもないし、なにかの自然現象について記述したのだという根拠があるわけでもない。その中であるいは関係した記述ではないのかという説がでているわけである。

 たとえば日食についていえば、卑弥呼の没年前とされる 247 年の日食のように、日没直前に日食がはじまり、欠けたまま日が沈んでしまったとしたらどうだろうか? もう太陽が昇らないのではないかと不安におののくことは想像できないだろうか? とすれば、夜通し祈祷を続け、踊りや宴を開いて「どうぞおでましを」と祈ったとしても、ありえない話ではないと思う。

 毎日雪が降るところでは災害は起きないのだろうか? 東京は 20cm はおろか 5cm の雪でも大事件である。 また、1 ~ 2 年も寒冷化するような大噴火ともなればあまりに長期であり、とても神話のような展開には長すぎてふさわしくないとも言えるのではなかろうか。しかも、地元の人は慣れてしまっていると言うのであれば、「これは大変だ」と騒ぐ理由もなくなっていると思うのだが。

 繰り返しになるが、そもそもが神話での話である。厳密な意味で史実であるという保証が、まずない。日食である可能性すらわからないが、この程度の推論をもってして関係ないと断じてしまうのは、いささか早計というものではないのか。


日本は天照大御神の国なのだから、太陽観測(時刻や季節の推移)にもっと熱心でなければならなかったはずである。しかし、日本の考古遺跡・歴史の記述をみるに、太陽に対して関心が持たれていたとは思えない。メキシコやアンデスの古文明では遥かに熱心に太陽を観測していたことを筆者は知っているだけに、初日の出ぐらいにしか関心が無いのはどうしたことであろうか。不思議なことである。(中略)このことから、アマは天や太陽ではなく、海のアマだろうと想像できる。(P.116)

 天体観測の有無は定かではないが、日本のあちこちにも環状列石遺跡は見つかっている。また、岩船、酒船石の遺跡は天体観測をしていたのではないかと考えられている。「天文考古学入門」(桜井邦朋、講談社現代新書)から以下を引用する。

たしかに日本には天文考古学的な遺跡は少ない。しかし、これをもって日本の古代人が天文学に無関心であったとするわけにはいかない。古代日本人が、太陽の運行を注意深く観察していたらいしことを示す神話が残されていることも注目されてよいのではないか。

 その神話とは、あのあまりにも有名な天の岩戸の物語である。(中略)
 この神話が日食のような不規則ないつ起こるかわからない現象に関わって生まれたとする考え方もあるが、私はこの考え方をとらない。
 くり返しくり返し同じような状況下で経験されたことが神話として残るとみる方がはるかに納得がいく。だから、天の岩戸神話は冬至の祭りのように毎年くり返される祭祀から生まれたと思う。
(中略)
 こうした考え方は私の独断ではなく、日本の古代における民俗学の権威折口信夫氏によって発表されている。だから、遺跡がなくとも、古代人の太陽崇拝に関してもっと注目してよいと思う。
『天文考古学入門』(P.187-189)から

 詳細な太陽観測をしていなければおかしいというのは、少々傲慢ではなかろうか。


■全能系

魏志倭人伝をざっと読んでみて、この書の内容はほとんど地誌であると理解した。(P.10)
結果論であるが、日本書紀の年代記述における干支の設定は正確である。(P.23)
 納得できる論拠が示されていない。


7 (3) 唐突に定義もなく女王国とあるが、ここは文脈から倭国という意味である。(P.44)

22. の倭地は九州島という意味である。この部分の記述は周囲に島があるので、どこまでを倭地とするか定かでない、という言い訳であろう。この一文を読んだだけで、倭がヤマト(近畿)でないことは明白である。(P.46)
 こうもなんでも分かっておられるならば、もはや解読される必要はないのでは。


雪国の縄文人だって同じことである。半年以上も仕事がなく、雪に閉じ込められる季節にそこに居続ける訳がない。(中略)きっと考古学では季節移住を示す遺跡があるとの結果を得ているに違いない。(P.48)

 著者が思ったことはかならず事実となるのです。


その間には冬型の気圧配置のときに天気界が安定して存在する。この天気界は、トンネルを越えると雪国だった、と描写されている。雪国の縄文人は積雪季を隣接する雪のない地方で過ごしていた、と信じている。(P.49)

古事記にいう「葦原の中国(なかつくに)」とはこの筑紫平野を指していると思われる。証拠は何もないが福岡平野のことではないだろう。(P.55)
結局梅雨を挟む前後の時期 6 月と 8 月が安全な渡海日和となる。こんなことは私が指摘するまでもなく、海に死活をかけて生活している海原族には常識となっているだろう。(P.66)
なお倭の地(国)とは後で述べるように九州のことである。(P.74)
この最後の 2 つの行程に陸行とは記述されていないが、著者は簡潔な文章を書きたいようだから当然「陸行」が省略されている。(P.81)
カワラやカワラケもこの香春が語源であろう。(P.84)
 むしろカワラやカワラケの生産が盛んな地域だったためにその名がついたと考えるほうが自然とはいえないだろうか。いずれにしても短絡的である。


記述(魏p.50)によれば、女王国(ここでは邪馬壱国)の東千余里に国があって全部倭種(倭人と同じ種族)である、という。もちろんこれは四国のことを指しているが、第一案の邪馬壱国の東ではない。(P.91)


そのころ航海に磁石(羅針盤)を使っていたかどうか、陸路携帯できるような磁石があったかどうか、専門家の検証を待ちたい。ただし方位についての魏志倭人伝の記述を見る限り磁石を使っていた形跡はない。(P.113)

 記述からそれを判断するのは無理ではなかろうか。


ところが対海国から一大国は東南であるのに、南としている。また対海国と一大国で米をかう交易の行き先を南北としている(魏p.39)。この部分は、正確な方位をいうと文章がおかしくなるので、一歩譲って南北で良いとしても、対海国から一大国はやはり、南ではなく、SE である。(P.119)

 魏志倭人伝ではあくまでも「南」と書かれているのに、「東南であるのに」と断定してしまっている。


南 4000 余里にあるとされる侏儒国はどうであろうか。実は侏儒国も含めてここから後の倭人伝の記述はとくに距離は全くでたらめである。倭人からのあやふやな伝聞を記事にしたものと思われる。(P.121)

 でたらめと断定しつつも、その理由や根拠についての言及は以降もない。


当時別府湾を東の海と呼んだのであれば、納得できるが、東を NE とすると、この矛盾は和らげられる。なお大イタはイタ船(ロ船)が語源であろう。(P.126)

 突然「大分」の語源に及び、しかもいきなりの断定調。


魏使が上陸した港は那の津であるが、念のため他の可能性も探っておこう。(P.156)

 つくづく、まず断定する、のがお好きらしい。通常、他の要素を精査除外していって、最終的にこれであろうとするのが科学的な結論の導き方ではないのか。


ただし祢がネと発音されることは普通はない。(P.206)

 祢津(ねつ)という苗字もあるし、禰宜とも言う。


とここまで来て、2 つ候補があるのがどうも気になり、今度は違う辞書(広辞苑)を調べた。そして「マ」の和語に「湾または海岸の船着場。北陸地方などでいう語」という意義があることを知った。何のことはない末蘆国とは、船着き場の(ある)浦の国だったのである。松とは関係なかった。(P.211)

 こうも簡単に断定してしまうのは、なぜなのだろうか? 末蘆国というのは北陸にあったとでもいうのだろうか。


倭国は狗奴国と敵対していた。狗は漢音コウ呉音クと発音され、イヌ(特に小型)のことであるが、どうして現在の熊(漢音ユウ)本になったのだろうか。(P.247)

 狗奴国は熊本県であるというのだが、なんらその説明はない。


■妄想系

宮崎平野の真南、志布志湾との間には鰐塚山地と呼ばれる不思議な山地がある。(中略)ワニという地名も珍しい。この山地の都城あたりを無防備で歩いていると、ワニ族に襲われて、身ぐるみはがされてしまうと感じるのは、子供の頃のおとぎ話の影響であろうか。もっとも今にして思えば、日本にワニはおらず、鮫や鱶が水に棲む危険な動物である。このフカとは舟、あるいは船を住まいとする人のことで、船賃(対価)を踏み倒そうとして失敗して、ぬいぐるみ剥がされてしまったというのが真相であろう。あるいは言葉が上手く通じなかったのかも知れない。つまり異民族の気配である。(P.54)
 鮫のことを「ワニ」というのはご存知ないのであろうか? 貝塚よろしく、鮫を食用にし、塚ができたと想像することは難くないと思うのだが。また、「ぬいぐるみ剥がす」とはいったいなんのことであろうか?


魏志倭人伝では、伊都は帯方郡からの使いが行き来するとき滞在する所である、とだけ報告して、温泉のことに触れていないことが笑わされる。魏の使いは温泉で倭国伝統のドンチャン騒ぎの接待を受けていたのかも知れないのである。(中略)魏志倭人伝の記事のうち、実際に見聞したと感じられる、倭人の風俗習慣の記述は非常に好意的である、温泉での接待の成果があったのであろうか。(P.86-87)

竹取物語に「くらもちの皇子は、心たばかりある人にて、朝廷には、筑紫の国に湯あみにまからむといとまして」(湯に入りに行くと休暇をとって)とあり、しかもイトをかけてことばにするのは万葉歌人のおやじギャクかも知れないが、後世から見ると、これはただごとではない、と思わせる。(P.87)
航海中では、舳先と鞆に鉾を立てる。銅鉾がなければ、船の構造として、両端を高くして尖らせておく。そこに一等航海士と二等航海士がワッチに立ち、声を掛け合いながら、常にお互いの(つまり前後の)地標と舳先が真来になるように、操舵手や漕ぎ手の組長(機関士)に指示を出す。機関長は漕ぎ手の疲れ具合を見計らって、組を交代させる。前方の 2 つのランドマークが真来通る状態になったら、航海は極めて容易なので 2 等航海士一人でよい。これが当時の渡海船の航海術である。と見てきたかのようなウソかも知れないが、この役割分担は動力が人からエンジンになった現在でもそのまま残っている。(中略)古墳時代の大型船(西都原出土重文埴輪船)に鉾を立てる穴があるかどうか、知りたいとおもっている。知らないことを武器に思いを馳せれば、当時の船には地文航海のための仕掛けがかならずあり、鳥がとまりたくなるような鳥居の原型のような構造物があるのではないだろうか。(P.189)
 もはや妄想と現実の区別がつかなくなっているようである。つまり、現在の船でも舳先と鞆に見張りというか航路を確認させるための要員を置いていて、そのようにして船の航行というのは行われているらしい。


海を渡る技術を持っていた集団は渡部氏と呼ばれていたらしい。航海技術のうち位置決め技術は陸地でも全く同じなので、国見あるいは物見の専門家集団らしい物部氏も同類であろう。ヨットでは船長は鞆(トモ)に座っているようなので、大伴(友)氏も海洋技術集団かもしれない。(P.190)

 甲斐さんはきっとこぎ手だったのでしょう。


さらに空想の世界に進めてみよう。黒色火薬(原料の硫黄は琉球か九州産)は唐の時代には実用化されていたとされているが、もっと古い時代(魏志倭人伝以前)にも烽火台や火薬があったのではないか。花火や地上の爆発を遠くから見・聞すれば、音の速さは 340m/sec (気温 15℃)だから、規格化された砂時計(沙漏)で光と音との時間差(つまり砂の重さ)を計れば、方位既知の点の観測で直線距離が得られる(極座標表示)。雷は、ピカ・間・ゴロゴロだから、この時間差(間)×音速=距離、は誰でも気がつく事象だろう。(中略)私が古代人であれば、この方法で地標周辺の詳細な地図を作ってみせる。出雲風土記のような極座標系を原データ(方位と距離)とする地図である。(P.196-197)

 魏志倭人伝以前の人が正確に音の速さを測定していたということですね? 著者が仮に古代人として、著者が今現在持っている・知っている知識は一切ない条件でも地図の作成が可能であると? それとも、その時代にはすでに現在わたしたちが持っているような知識はすべて存在したのだから可能だとでも。


離島の統括官庁は離島のどこかにあるのではなく、本土の港にあることが多い。離島ごとの結びつきは強くなく(地域の性格が似ているので用がない)、本土との交通の方が重要であるので、あまり用はないが隣の島に行くのに、いったん本土に行き、そこから目的地の隣の島に行く、などということが普通であった。用もないのに島巡りをさせられるのは時間の無駄である。島巡りの航路はエンジン付きの高速船が用いられるようになってからであろう。以上の語呂合わせ、古事つけはあまりにも、遠回りすぎる。(中略)この説は棄却することにした。(P.202-203)

 妄想と現実の区別のつかない文章はどうにかならないのだろうか。


神武・崇人・景行・ヤマトタケル・応神など、どんな交通手段を用い、どんな旅費を持っていたのか不思議なくらい、神話の神は九州各地を飛び回っている。交通手段と交通網が整備されてからの明治天皇や昭和天皇の行幸とは違うはずである。(P.242)

 まじめに言われているのであれば、はなはだ心配である。妄想と現実の区別がつかないだけでなく、神話と現実の区別もつかなくなられているのであろうか。


一般に気候が寒冷化すると、結果として人口が減少する戦争をしたがるのが人類である。寒冷化とは反対に温暖化によって悪いことはほとんど起きない。このところあたたかくて良いですね、などと和やかにいいあっていれば、戦(たたかい)など起きない、とおもわれる。ウソだと思ったら弥生人か倭人のリーダーに聞いてみればよい。「このところ夏か涼しくて、米の収穫が減っている。餓死するくらいならいっそのこと戦争でもして、隣の国の水田を手に入れたい、と国民の多くが思うようになっている」などという物騒な返事が返ってくるはずである。(P.254)


水田の村の板木と古代の風鐸と風鈴が同じルーツだ(?)とは誰も知らないかもしれない。(P.283)

 著者が勝手にそう思っているだけであるから、知る由もない。


魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」自賛、親切、ウソ編: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」もろもろの1: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」もろもろの2: つらつらぐさ
「魏・卑・日・つ」正誤関連: つらつらぐさ

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