本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。
読書もまた嗜好品である以上、その分野や同じ分野であっても内容の如何によって好みを分けてしまうということはあるもの。フィデルマシリーズはまさにそうした嗜好を大きく分ける小説のひとつでもある。
第一に、舞台が七世紀のヨーロッパであること。現代のような科学捜査といったものはまったくない。さながら時代劇ミステリーと同類といえなくもないが、それにしてもこの年代設定はあまりにも古い。まして、日本ではなくヨーロッパともなれば、抵抗を感じる人があっても不思議ではない。
第二に、主人公のフィデルマがあまりにも優秀すぎること。頭脳明晰で油断のない観察で相手の言動を分析し、小さな証拠をこつこつと積み重ねては全体の絵を完成させる。その手腕はあまりにも卓越しすぎているのでは、という嫌いもあって敬遠される向きというのは少なからずある。
第三に、主たる舞台はキリスト教に関わる社会であり、人々であるということ。そもそも日本人というのは多くが無宗教。神棚と仏壇が同居する生活はごく当たり前。ましてキリスト教についての基礎的な知識すらあやしいというにも関わらず、そこで語られるのは当時の非常に複雑な宗教社会。それらがある意味、延々と語られる。
しかし、考えてみれば、ヨーロッパが舞台ではあるものの、ヨーロッパ特有であるがゆえの不可思議があるというわけではない。もちろん多少のところは作中できちんと補足が語られるので、社会背景なども平易に理解できる程度のものだ。
フィデルマの明晰さについても、確かにずばぬけているのはその通りなのだが、うっかり忘れてしまっていたりということもあるし、本作では暴漢に襲われて昏倒してしまったり、決して完全無欠のスーパーヒロインというわけではない。
自分がもっと早くに気づけずに死なせてしまった人を思って歯噛みすることも時としてあるし、相棒(といってよければ)エイダルフへの自分の思いに迷い悩むところなどはうら若いひとりの女性でしかない面も多々見せる。
キリスト教に関わる記述についても、やや踏み込んだ部分はなかなかすんなりと理解しにくい部分はあるとはいえ、多くの部分についてはむしろ道徳や倫理的なものも多い。一般的な社会通念であったり、現代社会において考えても、現代のなんと愚かなことかと揶揄されているのではないかと思う場面も多く、宗教について語られているということを忘れるくらいであったりもする。
確かに解説を書かれている若竹七海さん言うように、短編の小気味よさに比べ、長編の場合に関係者を尋ね歩く場面が非常に長きにわたるために、やや退屈を感じるのは否めない。このあたりはフィデルマシリーズ長編のやや悪いところかもしれない。
けれども科学捜査が存在しない以上、この部分がなによりも重要なのもまた事実。とりあえずは細かいことは抜きにして会話を楽しむことができればよしと思うと、少し作品への入り込み方が変わってくるかもしれない。
特に本作「サクソンの司教冠(ミトラ)」では、謎解きとなる結末はやや複雑だ。正直通り一遍に読んだのではすんなり理解することは難しいかもしれない。しかし、そこを丁寧に読んでいけば最後に大きなどんでん返しが待っている。してやられたと読者は思い、静かな微笑をフィデルマはきっと浮かべていることだろうと。
事件の解決後の件も憎いものがあって、フィデルマのその後が妙に気になってしまって仕方ない。そうしてまた、フィデルマ世界にどっぷりとはまっていくわけだ。
読書は嗜好品。けれどもこのシリーズで得られる体験は、なかなか得がたいものでもある。
「聖マタイが言っておられるように、人は二人の主に仕えることはできません。一人を愛すれば、もう一人を憎むはず。一方を奉じるなら、もう一方を見下すはずです。神と“富の邪神マモン”の両方に仕えることなど、できません。このように華麗きわまりない宮殿に住まい、現世の壮麗さを誇示する者は、神よりマモンを尊んでいるのですわ」(P.47)
「私どもの法律は、自分や家族が生きてゆくだけの手立てを持たない貧困者たちの救済を、明確に定めていますもの」(P.52)
「良き裁判官は、一つ一つ、証拠を集めます」と、フィデルマは微笑んだ。(中略)証拠の一かけらに飛びついて、そこから絵を作り上げようとするのは、悪しき裁判官ですわ。誰にわかります、その一かけらは、裁判官が求めようとする全体像とは全く関係のないかけらかもしれないでしょ?」(P.203)
たとえば、聖パウロは、肉の関わりは、より崇高なる魂の希求にとって妨げになると信じて、聖職者の独身制を論じておられましたが、その説が正しいと、誰に言えます?」
エイダルフは、この話題に、恥じらいを見せた。
「正しいのだと思いますよ。アダムとイヴの堕落が、それだったのですから」
「でも、生殖は、人類の存続に必要です。それがどうして、罪なのでしょう? 神は、生の営みを罪だと見做すことによって、我々を忘却の中に抛りこみ、消滅させようとなさる、と信じなければならないのですか? もしそれが罪であるのなら、神はどうして生殖の機能を我々にお授けになったのです?」(P.268)
「では、独身制は間違っていると?」
フィデルマは、眉を曇らせた。
「独身制を望む者は、独身を貫けばいいでしょう。でも、当人が独身制を望んでいようが望むまいがお構いなしに、全ての聖職者にこれを強制すべきではありませんわ。(略)」(P.269)
「あなたは、教皇猊下に対してさえ、ああいった失礼な態度を平気でとるに違いない」
「失礼な?」と、フィデルマは首を振った。「私、マリヌスを軽んじているのではありませんよ。でも、私たちは皆、その地位にふさわしい手腕や権威をふるえるものと、期待されているはずです。皆それぞれが相手に期待すると同じように、自分たちも、自らの力を十分に発揮して、自分の職責を全うすべきです。能力を伴わない地位への思い上がりは、確信を伴わない能力と同様、道徳的な犯罪ですわ」(P.320)
「時には、何が正しいかが、本能的にわかることもあるのよ、フィデルマ。
(P.434-435)
「“高慢は破滅の先駆け、傲慢は堕落の先触れ”」と、フィデルマは呟いた。(P.494)

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