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わたしは誰々である

 「キルトの家 後編」を見る。やはり一番印象に残ったのは「わたしは一老人ではない。だれだれである」といったメモの話。この言葉にドキリとさせられない人はそう多くないのじゃないかと。

 自分の両親はもちろんのこと、身の回りのお年寄りであったり、仕事上でそうした人々と接するような人であれば、より多くのそうした経験が思い起こされるのではないかなあと。別にその人の人格を否定するわけでもなく、けれどもなんとなく高齢者であるとか、老人であるとか、はたまた子供であるとかいった、そうした区分で人を見てしまっているということが案外多くはないかと。

 けれども、その人はひとくくりにされた老人というものではないのだし、それぞれに異なる人生を歩んできただれそれであるということを忘れてはいけないのだと。

 このあたりは日本人の自我形成というものがあるいは大きく関係してしまっているのかもしれない。子供時代は名前で呼ばれ、大人になって多くは苗字で呼ばれ、恋愛をすれば互いを名前で呼び、そして子供が生まれるとお父さんでありお母さんになる。そしてそれはやがておじいさんになりおばあさんとなる。

 そうすることで無意識のうちに名前ではないただの属性としてみてしまっているということがないだろうかと。

 ドラマとしては結末がやや中途半端な印象もあったのが残念ではあったけれど、さすがに山田太一さんだなあと思わせるよいドラマではあったなあ。


 岩波書店さーん。

4004202418日本的自我 (岩波新書 黄版 241)
南 博
岩波書店 1983-09-20

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