腰巻の悲哀
[ Island Life - 本の帯 ] ときどきの雑記帖 濫觴編 経由
本の帯の経緯について井狩さんあたりの本でなにかなかったかなと思ったのだけれど、残念ながら手元では見つけられなかった。自分が知っている限りでいえば、まず日本の出版社独自の宣伝方法で、著者、装丁者方面ではこれを嫌う向きもあるのは確か。
一方で古書店などではこれが価格を二分するようなこともあるわけで。もちろん帯があるものの価格が高くなるということもあると。当然ながら文庫本のそれがそうであるというようなことはなく、箱入りハードカバーなどの手合いで希少なものの場合などに限られるわけだけれど。状態がよければなおのこと。
少なくとも帯というのは出版社が売り上げ増のために客をひきつけようとしているものなので、読者の手に渡った時点でその役割を終えている。そしてカバー表紙と同じで取替えができるというのが意味を持っているわけだ。発売時、なにかのキャンペーン時とで替えることであらたな命を吹き込む。文庫などは顕著であろうし、賞を取っただの、急に話題になっただの。児童書であれば課題図書になっただの。
ただ、やはり普及的な書物は別として意匠を凝らしたような装丁ものであると、邪魔なものでしかないというのもまた確かなのだろうなとは思う。下手をして長年棚に置かれて日焼けあとなど残ろうものなら・・・。
で、思い出すのが椎名誠。「腰巻など脱がせてしまえ!」(「本の雑誌」1980年18号掲載)と題して書いていたことがある。
つまりそうなのだ。あの「コシマキ」というものは、その本の著者も、画家も、装丁者もあずかり知らぬ出版社側の必殺まとわりつきインベーダーのようなものなのであるのよ。そうしてあれはつまり、いかにしてその本を沢山のひとびとに売るか、ということだけを考えているシロモノなのでありますから、コシマキの効用というものは、つまり書店に置かれて、誰かに買われていくまでの間----というふうに、これはもう誰が考えても実に明確にその「有効使用期間」というものが限定されているものなのでありますよ。 (P.164)
で、次第に腰巻がずっとついたままになっているものが増えてくるとカバーのような機能がついてきてしまって表紙カバーのデザインとあわせたものがでるようになり、第二のカバーのようになってしまった、と続ける。
しかし、ここで思い切ってエイヤッとカバーを取り去ってみるべきではないのか、その手始めに腰巻から捨ててはどうか!と意気軒昂。
本のほうだって腰巻をまとっているのに慣れてしまっているからはじめはやっぱり、あっだめ、いや、いや、などと身をひねらせて抵抗するかもしれない。しかしそこが勝負なのだよ。「エイヤッ」と思い切ってまずはとにかく無理やりにでもはぎとってしまえば、あとはたいていなんとかなるものなのである。
(P.168)
とまあ、腰巻なんか脱がせてしまえと訴えるのであった。まあ、それもわかる。とはいっても案外残してあったりはするのだけれど、自分では。
ただ、書店の文庫の棚などではまばらに帯が残ると見た目にもよくないので、時折帯一掃作業をしたりすることがあって、実はひそかな快感であったりするのはなかなか知られない楽しみであったりはするのだよなあ。
まあ、帯の面白さも不要さもそれぞれあると思うので、まあ好みでどうぞと。保管の際には日焼けあとが残るのでご注意をと。そして、一度くらいは帯を取った素の装丁を楽しむ機会をもちましょうと。
#引用はいずれも「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」(本の雑誌社)所収から
ここにも帯ワン・ケノービが!
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装丁としてはこちらのほうが好き。
![]() | もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵 椎名 誠 本の雑誌社 1981-04 by G-Tools |
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