ひとが自然の一部になるとき
NHK スペシャル「クニ子おばばと不思議の森」を見ていると、いかに今の山に手をかけなくなったのかが思われていろいろ考えさせられる。30 年かけて順繰りに焼畑をしては 4 年のあいだは作物を育てるが、それとても基本は自然のままを活かした栽培で、すぐ隣には草木が育っている。
一年目は焼いた直後に蕎麦を蒔き、二年目は稗、三年目が小豆で最後の四年目は大豆。そうしてそれ以降は森が再生するのにまかせる。もちろん放置ではなく、きっと下草刈りとか必要な手は加えるのだろうと思うけれど。そうして順繰りに場所を移動して 30 年でまた巡ってくる。その周期が森をきちんと若返らせて維持するために大切なものなのだと。
林業の衰退が叫ばれて久しいけれど、まったくないわけでもなく、けれども恐らく多少そうした人手がはいっている山であってもこの山と違うのは恐らくその介在の仕方そのものなのだろうなと。人が過剰に入っていって人の目先だけで行っていくとそれはきっと簡単に壊れていくかもしれない。人手をかけて森を、山を守るのだとやっている現代的な林業にしても、本当の意味で自然を保持しているのかどうかは疑問かもしれない。それは、ことによれば昨今の台風などにともなう土砂災害を引き起こす要因、あるいは災害を防ぐ力をそいでいることになっているかもしれない。
恐らく人もまたそこにある自然の一部としてかかわったときにこそ、山や森がそのものとして元気に生き続けていくのかもしれない。それはきっとこのクニ子さんのような姿、かつて日本ではあちこちであったはずの姿によったのではないかなあと。
近年になって長野県では森林税というものをとるようになったのだけれど、なにかとお金がかかるのは確かだろうからそれはそれとして、本質を見ないままになにかをしようとしても結果はよくならないということもあるのじゃなかろうかと。本質的なかかわり方をこそ見直して、改善する施策こそ望まれることなのかもしれないなあと。
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