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スライドを書く暇に原稿を書いてはどうか(とか)

 最後の Ruby 会議が終わってからしばらくして、公開された講演のビデオに字幕を付ける作業をはじめたという話をきいて、ご苦労なことだなあと当初は思っていたのだった。はじめる理由としては、日本語が多少わかる外国人でも話している日本語をきちんと聞き取るのは難しいが、テキストになっていれば理解しやすかったり、あるいはビデオなので時々とめてはじっくり読むことができるので、講演の多くをより知ってもらえるということをあげられているようだった。

 同時に日本語だけでなく英語字幕にする作業や、その反対の作業も行っていきたいということだった。ちょうど利用しているという字幕サービスで複数の言語を管理できるようで、そうした事情も理由のひとつかもしれない。

 ただ、字幕をつけておくということは、より広く知ってもらう、あるいはより多くの人がそれに接する機会を増やすという意味においても重要な意味をもつのではないかなと思うわけで。先のサービスの名前である「ユニバーサル サブタイトル」を思っても、それは会話言語がなにであるかということだけにとどまらず、たとえばそれは聞こえない人に対してもユニバーサルな観点から重要な意味を持つのではなかろうかと。

 そうした意味からも、可能でありなおかつ承諾ができるのであれば、今後こうした講演などのビデオを公開する際には、できうる限り字幕の添付を標準にできたらどうだろうかと思う。

 ただ、そのためには現状のような体制は十分とはいえないのではないかと。ビデオを人の耳で聞いてそれを文字にしていく作業、しかもそうした作業に熟達しているわけではないわたしたちが行う分には 5 分あまりを行うのに 1 時間あまりかかってしまう始末。これが、仮に julius など文字認識エンジンによってその大半の基本を処理できたとしたら、細かな部分の修正だけを人手によればよくなり、格段にその時間も手間も軽減されるはず。

 しかしながら現状公開されているビデオでは、会場の音声を拾っているだけなので実に音質が悪い。多少の調整をして julius にかけてみたものの、ほとんど全滅といってもよいくらいでしかなかった。少なくともマイク音声をそのまま録音しておくということは必要なのではないかと。

 もちろん、それによって確実に自動処理できるかといえば、それはわからないけれど、現状よりははるかによいのではなかろうかと。話者の音量、発音のよしあし、速度などいろいろ結果を左右するであろう要因はあるので、難しい側面もあるのは否定できない。それでもどうせならよりよい録音が存在するほうが望ましいのは確かだと思う。

 人の耳によってにしても、自動処理にしても、異様に早口になったりする部分があったり、語尾が小さくなってあいまいになってしまったり、あるいは独自の略し方などで話されたりした場合にそれを聞き分けるのはなかなか難しい。ある程度講演なれした人であれば違うかもしれないけれど、場数が少ない人ほどそうした余分な部分というのはあるいは多いかもしれない。

 また、近頃はスライドを見ながら話すことを決めていたり、あるいは思い出していたりということなのか、言いよどんだり、少し話しはじめてから言い直したりという例も多く遭遇する。

 スライドを作るのに時間を割く前に、発表原稿をまず書いてはどうなのか? と思ったりするのだが。

 本来講演というのは原稿を書いておいてそれを読み上げるというのが基本的なものだったように思う。もちろん、完全にそのままではない例もあったろうけれど、基本それをベースにおきつつ話していったものではなかろうかと。そのため時間配分も比較的きっちりしやすかった。

 ところが現在ではスライドを作るだけなので、話したいと思うことがらをどんどんスライドにしていく。枚数は増える一方。実際には全部話せずに終わるという例もあるし、間に合わないからとスライドをどんどん進めてしまって結局意味がなくなってしまった部分というのも時として見かける。そもそもスライドだけでは時間配分が読みづらいわけで、しかも実際の話はスライドを見ながらなにを話すのだったか思い出しつつ、その時々の言葉で語るのでますます時間は不定にならざるを得ない。

 本来スライドは講演の補助的な位置づけだったのではないかと。資料としてみてもらうべきものを用意したのがそもそもだったのでは。それがいつしか主客逆転してスライドを映写することが目的かのようになってしまってはいないかと。もしそうであるなら話者の存在などもはや不要だ。時間配分をきちんとされた、まさにスライドショーを流しておけばよいのでは。

 むしろ発表したいことを原稿に書くことを優先してはどうかと。すべて言葉にしておくことで、時間配分はこれを読めばおおよそわかる。過不足についての調整もきちんと納得のいくように行える。そして、その上で必要なスライドを用意すればよいのではないか。徒にスライド枚数が増えすぎて、話したいことのポイントが見えないということもなくなる。あーだの、えーだのといった言葉がはいる余地をなくす効果もある。

 そしてなによりも、原稿があることで字幕作成に非常に貢献できるというメリットがある。可能であれば事前に字幕を用意しておくことすらできる。いや、なにも字幕にしなくてもその原稿をそのまま公開してもらうということでもいい。もちろん、この場合も実際の講演で多少のアドリブがあったとしてもそれはかまわない。(当然、不測の事態が生じて、原稿があっても時間にずれが生じてしまうという可能性があることは否定しないし、原稿あっての時間調整(短くしたり)といったことはむしろ難しい面もあるかもしれない)

 LT のように「ドラを鳴らすまでが LT 」といった文化を持ったものはまた別として、そうではない講演については、基本的にまず発表原稿を書き、必要であればそれを補うスライドを用意するということができれば、講演そのものもよりよくなるのではないかなと思ったりする。なおかつ後に公開されるビデオに字幕をつけるという作業も格段に労力を減らすことができ、さらには間違いのないものにすることが可能になる。

 もちろんなかには現状のようなスタイルで話すことで、一定のよさを出している人もいるかもしれない。その時々のアドリブの良さを主張する人もいるかもしれない。それはそれで否定するものではないけれど、全般的なところで見れば話者にしても聞く者にしても、そして後にビデオ視聴する者にとっても有益な方法として、原稿を用意するということは考えられてもよいのではなかろうかと。

 それは強制されるものではないし、ある意味講演する人の考え方でもあろうから個々人に委ねるしかないとは思うのだけれど、字幕というひとつのユニバーサル化だけでなく、講演そのもののさらなる充実という観点からも今後考えてみてもよいのではないかなあ、などとも。

 そんなことを実際にテキスト起こしをやってみて思ったのだった。

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