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新たな神話の揺籃

 NHKスペシャルの「新エネルギー覇権争奪」を見ていて、素直に思ったのは、結局大震災による大規模な都市再構築に目をつけた金の亡者たちがうごめいている、というイメージ。もちろん、すべての企業がそうであるというつもりもないし、企業であればそれもいたしかたないという面も否定はしないけれど、あのいくつかの笑顔のしたには、様々な思惑がうごめいているのは間違いないはずで。ある意味、壮大な実験場という見方すらあるのかもしれないと思うと、素直にこれを受け止めてよいのかどうか、どうしても疑問にも思ってしまうのだった。

 スマートシティ構想では、電力が足りないと判断すると、中央のコントロールセンターが各家庭の電力使用にまで手をのばし、使えないようにしたり、照明を暗くしたりしてしまうのだという。センサーを多数しこんで多大な情報を集約し、世界中のすべての情報を得るのだといきまくメーカーも。それってまかり間違えば恐ろしい未来社会になりはしないのかと。

 老人や子供のいる家庭をどう切り分けるのかとか、それはお得意の申請主義にでもするのかとか、はたまたそういう家庭でも在宅かどうかでその判断をわけるのかとか、生命維持装置で生きながらえているような人もいるし、視覚や聴覚に障害をもっている人だっている。そういうところを抜きにして全体的に管理するとなれば、弊害も少なくないのではなかろうかとか。

 また、そうしたことをより緻密に管理するとして、そうしたシステムが不具合を起こすことがないと誰がいえるのだろうかと。「ほとんど起こりえないことなので、考える必要はありません」とでもいうだろうか。それでは、またぞろとある神話の再来ではないのか。

 「コンピュータが死んだ日」(石原藤夫)の描いた世界が現実となる日が、そう遠くない将来にあるいは訪れるのかもしれず。あまりに、なんでもかんでも管理しようというのは非常に危険なにおいがして仕方ない。行き着く先は”超管理社会”であったりしないだろうか。

 GE も乗り出しているというが、大問題を抱えてギリギリの攻防を続けているマーク1は、GE の設計ではなかったか。その反省はあるのだろうか、とか。

 今本当に必要なのは、近未来的な社会のイメージ構想なのか。それとも、そうした余地を残しつつのまずは生活の復旧なのか。なんとなく少しあさってなところの議論のようにも思えてしまったり。

 少なくとも新たな安全神話を振りかざすことのないよう、願うばかり。

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