夜と霧
夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 V.E.フランクル 霜山 徳爾 みすず書房 1985-01 by G-Tools |
先日読んだ「大河の一滴」にも引用されていたり、映画「愛を読むひと」を見たことなどもあって、久しぶりに再読。あらためて思ったのは、半分は解説に割かれていたのだなということ。文字の大きさと二段組であることを思えば、実質的にも半分は解説などにあてられているといってよいのかもしれない。
で、順序を踏まえて解説から読み始めたのだけれど、これほど凄惨な内容だったかと思うくらいに、収容所で行われた数々の所業が記載されていく。しかも、淡々と。抑揚が一切省かれているために(解説という特徴からすれば、それが当然ではあるのだけれど)、いっそう背筋の凍る思いがしてくる。なかなか一気に読んでしまうことが苦痛に思われ、時間をおきつつ読んだのもあって時間がかかった。
それは見るも恐ろしい光景でした。彼らが真黒になった死体から、危険を冒して一片の肉を切り取って食うにいたったのは、どれだけ囚人たちが追いつめられていたか--それはあなた方の御想像におまかせしましょう。(P.24)
ブッヒェンワルトでは、収容者は石を抱かせられ、肥料の中で溺れさせられ、鞭で打たれ、飢えさせられ、去勢され、そして輪姦されたりした。しかしそれだけではなかった。入墨をしている者は薬剤所に報告するように命令された。(中略)すばらしい彫刻を持っている連中は留置され、(中略)注射で殺されてしまったのである。この死体は病理部に引き渡され、そこで皮膚をはがされて処分された。処理を終えた人間の皮は司令官の妻イルゼ・コッホに下げ渡されたが、彼女はそれでランプの傘やブックカバーや手袋を造った。(P.27)
だが、強制収容所内の医師によって遂行された実験はこの種のものではなかった。実験台となったのは志願者ではなく、常に強制的に押しつけられ、時には暴力を加えられて連れてこられた者であった。手術は時としてその資格のない人間によって行われることもあり、衛生設備はなっていない場合の方が多かった。(中略)しかも最後に付け加えておかねばならないことは、実験の多くは何ら医学的、あるいは科学的にも重要なものではなかった、ということである。(P.33-34)
この解説部分を読むだけでも、もう十分と思えるほどで、こうしたことを踏まえて、あらためて映画「愛を読むひと」を思い返せば、あの裁判の場面への理解もなるほどと頷けるものが。なんとなく知ったつもりになっているアウシュビッツのことを、いかに知らずに、あるいは忘れてしまっていたのかと反省するばかりに。
続く本文では、フランクルの体験がみずからの言葉で綴られるのだけれど、むしろ収容所という極限的な場所においての人間心理について、囚人の側だけでなく、看守ら側の面からも考察しているあたりが、学者魂なのかも。
これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。
(中略)
通常これは次のような形で始まった。その当の囚人はある日バラックに寝たままで横たわり、衣類を着替えたり手洗いに行ったり点呼場に行ったりするために動こうとはしなくなるのである。何をしても彼には役立たない。何ものも彼をおどかすことはできない--懇願しても威嚇しても殴打しても--すべては無駄である。彼はまだそこに横たわり、ほとんど身動きもしないのである。そしてこの危機を起こしたのが病気であれば、彼は病舎に運んで行かれるのを拒絶するのであり、あるいは何かして貰うのを拒絶するのである。彼は自己を放棄したのである! 彼自身の糞尿にまみれて彼はそこに横たわり、もはや何ものも彼をわずらわすことはないのである。(P.179)
さすがに霜山さんの訳は初版が 1962 年ということもあり、やや古めかしいところが多く、現代にはなじみにくい印象が強いのだけれど、現在でている新版はどうなのだろう(訳者が別なので読みやすくなっていそう)。翻訳なども少し直されているようであれば、そちらで読むほうがより理解がしやすいかもしれない。
今この時代であっても、程度や形の違いこそあれ、同様の凄惨な事件・事態は存在している。
時代を経てもたびたび読み直されて、読み継がれていくべき一冊。
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