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活動と行為

 先日河野さんがこんなことを書いていて、妙に納得してしまった。

20110322_kounot

今日も藤沢駅前で高校生が義援金を呼びかけてたけど、彼らに預けるメリットがまるでないんだよなあ。そもそもいつどの団体を通じて振り込むのか不透明だし、それこそ自分で日本赤十字に振り込んだほうが控除の対象になるし。子どもたちの自己満足にはなるんだろうけど。

 各地で小学生から大学生、はては芸能人やスポーツ選手とほんと街を歩けば募金箱に当たるってくらいに募金を呼びかける人が増えています。確かに、それが間違ったことだとは思わない。小学生がやっているなんていったら美談だなあと思うだろうし、たまたま通りがかったらつい募金してあげたくなるかもしれない。

 ただ、こうまで乱立するようになると、それは本当に必要なことなんだろうか、とも思う。わたしたちに求められているのは「活動」なのか、「行為」なのか、と。

 被災地、ことに津波による被災地ではなにもかもそっくり失ってしまったわけで、それを被害のなかった人々で資金的にも支えたいということは大切な気持ちであるし行いだと思う。わたしもそうしたいと思っているし。ただ、それならば日赤なり共同募金会へ募金をしにいけばよいだけなんじゃないかと。みずからが街頭に立ち、見ず知らずの人々に募金を呼びかけ集めることが必要なのかと。

 街を歩けば募金箱にあたるというくらいに、さまざまな個人・団体が入れ替わり立ち代り募金を呼びかけているのはどうなのだろう。すでに募金をしているけれど、何度も何度も募金箱の前を通らなければならない人だって少なくないのではないかと。そうして、通り過ぎてしまう人を見て「あの人は募金をしない冷たい人だ」などと思ってしまっていないだろうか。逆にこの不景気な世の中でわずかばかりの募金をすでに済ませた人にとっては「もうそんなに責めないでくれ」という申し訳なさを覚えさせていたりはしないだろうか。

 募金”活動”をしている人にとっては、確かに満足感があるかもしれないけれど、本来すべきは募金する”行為”そのものであって、彼らが誰かから募金を集めることではないのではないかと。少なくとも、小さな個人が義憤心だけで活動を起こすくらいなら、黙って率先して募金をしに行けばよいだけなのではないかと。

 企業がこぞって募金を呼びかけるのには、いろいろ裏もある。

 [ 義援金は企画した会社の損金になるらしい - 小宮日記 ]

 集めた分だけ自社の懐をあまり痛めることなく節税に役立つ例もあると。もちろん、すべての企業・団体の行っている募金活動がそうであるかはわからないけれど、そういう側面もあるのだということは理解するべきかと。

 とすれば、本当に支援を考えるのであれば、直接に募金するという”行為”こそもっとも有効で、するべきことなのではないかなとも思うのだけれど。

 活動そのものを非難するつもりはさらさらないけれど、もしも本当に活動をしたいというのであれば、むしろ現地にボランティアとしてはいるということこそ求められることなんじゃなかろうかと。それができない立場であるなら、活動しようなどと思い上がらずに、スマートに募金という行為を済ませてしまうほうが、ずっとかっこいいのではないかなあ。

 そう考えると、新聞などに募金企業の名前などが掲載されるのは、ある意味募金証明になっていて、節税対策という見方もできるのかもしれない。

 芸能人など著名人の場合はどうなのかといえば、集金力は高まるとは思うけれど、あるいはこうした人々も確定申告などのときと同様に、今まさに募金しましたという場面を取材させて「みんなも募金してくださいね」とでも言わせれば十分なんじゃないかともいえるかもしれない。それこそ、みんなで募金して支援しようという”行為”を見せるという。活動ではなく。

 あなたのしようとしているその募金活動は、本当に必要な活動ですか?

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コメント

タレントの場合は、泉谷しげるのように、
「スタンドプレーだ、金を出せ!」
というのが、一番正しいスタンスかと(^^!

投稿: 黒豆 | 2011.03.25 11:21

またまた、なるほど。
そういうキャラの人にはそういう役割も期待したいですね(^^;

投稿: ムムリク | 2011.03.25 11:32

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