ふたつの弱者
震災が起きてからというもの、震災に派生するあまりにも多くの事象が起きていて、正直誰もが困惑しているところもあるのだろうけれど、ずっと気になっているのが、テレビのインタビューなどでの国民の受け答えに特定のパターンがあるということ。
いわく、ひとつは「情報がとにかく少ないので、もっと正確な情報を細かく出して欲しい」といったもので、もうひとつは「これだけ数値とか出して情報を出してもらっているので、過剰に反応する必要はない」というもの。この両者のギャップはなんなのだろうと。
で、ここに”情報弱者”というワードが絡んでくるのかなあとも思うのだけれど、そこにもまた二種類あるのかもしれないと思うのです。
被災地で電気も通じず、テレビやラジオで情報を得ることができない場所では、文字通り情報がないわけだ。また、そうでなくても山間などでまるで隠遁生活ように暮らすことをよしとしている人なども、あえてそうした現代的な情報を遮断しているという点で似たようなものかもしれない。
もう一方は、都会であったり被害そのものはさほど大きくない場所で暮らしていて、電気もきているし(関東では事情により今回は計画停電があったりはしますが)、水道なども使える。テレビはあるし、ラジオもまあ持っていれば聞くことができる。携帯電話だって使えるし、インターネットだって使える。
テレビでは原発にしろ、野菜にしろ、水にしろ、懇切丁寧に説明してくれている。その咀嚼の仕方はそれぞれであるから、分かりやすさはあるいは異なるかもしれないし、不安をあおりたいとしか思えない人々がいるのも事実です。ただ、それでも、必要十分な情報はきちんと出ているのではないかなと、わたしは思っています。絶対的に十分であるかどうかは、議論の分かれるところかもしれませんが。
そうしたテレビなどの情報は見ているであろうと思うのに、なぜ「情報がない」ということになってしまうのかといえば、それはきっと「理解しようとしていない」ということなのではないのかと。つまり、怖いというイメージばかりに敏感で、それをきちんと自分から理解し、判断しようという意思が放棄されているのではないかと。(それでいて、悪意を持った人々のあやふやなマイナス情報だけは素直に信じます)
女性に比較的多いことだけれど、家電製品などについて「自分はこういうのは苦手だからわからない」といって説明書などまったく見向きもせず、他人まかせにしようとする人は案外多いです。確かに説明書がわかりやすいかという問題もあるにはあるのですが、面倒なものははなから排除したいという人がいるのは確かなことです。
さながらこうした状況にも似ているのではないかなと。
つまり、情報は流されているけれど、それを自分から理解しようと思っていない。そして、それを情報がないということに転嫁してしまっている。こうした人にいくら情報を与えても、それが生かされることははなはだ難しいといえそうです。
確かに科学的な話になってきて、それも非日常的であり、さらには極端な場合には生命の危機に及ぶという状況下にあっては、誰もが容易に理解することは難しいかもしれません。とはいえ、丁寧にわかりやすく解説している情報に耳をふさぐだけでは、事態は解決しないということもまた知るべきです。
すべてを知っている人などいませんし、知らないことは決して恥ずかしいことではないと思います。みずから知ろうとしないことこそ、恥ずかしいことなのではないかと思うのです。
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コメント
耳は開いてるんだけど、特定の単語にしか反応できない人が多いってのも
問題だなあ、と思います。
「不足している」=「買ってこなきゃ」
ほとんど反射神経だけで生きてる人も多いですからねえ(^^;。
投稿: 黒豆 | 2011.03.25 10:09
あ、そういうのもありますね。
きっと生物としての防衛反応としては正しいのでしょうけれど、それのもつ意味まできちんと判断しなければ駄目ですよね。
まあ、Twitter でも脊髄反射でRTしまくっている著名人とかも多かったですから、どうにもならないのかもしれませんね。
投稿: ムムリク | 2011.03.25 10:14