キサク・タマイの冒険
明治26年、酷寒のシベリアを単独横断した男。玉井喜作という無名の冒険家がシベリアの大地の向うに見たものは何であったのか、長い間き気になっていた。歴史に埋もれた一人の日本人の生涯が、ようやくこの本で明らかになった。広く読まれてほしいと思う。北上次郎
(「キサク・タマイの冒険」帯より)
恥ずかしながら久々に再読するまで気づかずにいたのだけれど、三年越しで放送中の NHK のドラマ「坂の上の雲」とまさに同じ時代の出来事でありながら、今でもほとんど知られないままなのだろうなと思うのが、キサク・タマイ、玉井 喜作の人生。日露戦争当時、ヨーロッパで暗躍した明石元二郎と深いかかわりを持っていた人物でもある。。もっともそれは晩年の逸話のひとつに過ぎなくて、まずは無謀ともいえる荒唐無稽な前半生から。
1866 年、山口県の造り酒屋に生まれた喜作。父親が早くに亡くなったために、兄が家業をついで兄弟を育ててくれた。喜作には学問をということで東京にでるが、成績は優秀なくせに学業には不安がつきまとう。せっかく仕送りしてもらっても、仲間との飲み食いに使ってしまうので、授業料はもとより下宿代すら払えずにたまる一方。ドイツ語などは教授よりも優秀なくらいになるのだが、それでもやはり授業料を払わないのでついには在籍の名簿からも削除されてしまい、幽霊生徒になってしまう。
それでも授業には出席し、一生懸命勉強するし、成績もよいので教授たちも他の生徒と同等に扱うし、授業料を催促するでもなかったというから、いい時代だったのかもしれない。
そのうちに実家の兄が、身を固めれば少しは落ち着くだろうと強引に縁談を決めてしまい、喜作が帰郷した際に祝言をあげさせてしまう。が、それでも東京にふたりして戻った喜作は相変わらず。それをまだ幼い新妻もそういうものとしてあしらってしまうのも、なかなかたいした度量。とはいえ、さすがに金に関しては考えなくてはということで私塾を開くと大盛況となり、それで授業料が払えるようになるかと思いきや、相も変わらずというのが喜作。
その後、札幌農大学にドイツ語教師として赴任することになり、数年は農業をしつつ穏やかに暮らすのだが、かねてより思い描いていたドイツ行きを果たすべく退職し、妻子は実家その他に預けて単身大陸へ渡る。ドイツへ行くだけなら船で直接行くなりすればよいのだが、なぜかシベリアを横断していこうと決意するあたりが面白い。榎本武陽や黒田清隆がシベリアを横断したという話を聞いていたことにも理由するのだけれど、彼らはロシアの軍隊などの全面的な支援を受けて厚遇されての横断だったのと比べ、喜作はまったく市井の者で特につてがあるわけでもない。にもかかわらず「なんとかなるだろう」とばかりにヒョイヒョイとでかけてしまう。時に明治 26 年。西暦 1893 年。
ウラジオストックに到着した喜作は、日本領事館を訪れると「シベリア全域の商業を視察したいが、ついては当地でロシア語を習いたいので、できればドイツ人の商社を紹介して欲しい」と申しでる。なぜドイツを、と言われると、「日本人の中にいると外国語が進歩しない」と答える。紹介されたドイツ商社を訪ね、「ドイツ留学を志しているが、どうせならシベリアを歩いてロシアの内情もこの眼で見たい。ついては旅費を稼ぎたいので働かせて欲しい。きっと業績もあげてみせる」と売り込む。すると、「失礼だが、きみは一度ドイツに留学したんじゃないかね。きみのドイツ語は学者仲間が話すみたいに格調が高い」といわれると、「私は学者じゃない。商業も農業も経験している」とアピール。無事に職を得るのだが、以降万事その調子。
仕事を得て二ヶ月もすると日常会話のロシア語には不自由しなくなった喜作だが、警官の横暴で連行され刑務所に入れられてしまう。金銭をせびるためになにかと警官が難癖をつけては、金を払わないとなると逮捕してしまうことが多く、ほとんどまともな話もさせてもらえずに、半分強制的にシベリア送りという例が多かった。なんとか友人・知人の働きで保釈される。
その後、馬車や汽船を乗り継いで西へと進み、ときおり語学力を生かして働いては資金を得る。どこでもその優秀さを気に入られ、「やめないでずっとここにいないか」と誘われる始末で、餞別までもらっての旅は続くが、生来きっての性格で、使うときには使ってしまう。その後、馬車の荷車で茶の隊商に乗っていくのだが、これがほとんど寝ず、休まずで行軍し続けるようなもので、相当に体力を失ってしまう。さらに先の到着地ではなかなか職にありつけなかったり、隊商のときに悪化した痔がさらに悪化してもんどりうったり。たまたま再開した旧知の椎名安之助に助けられる。
イルクーツクからトムスクまでは橇による隊商に乗ったが、これはよい隊商を紹介してもらったこともあり、さらには荷車と違い橇であったのでまずまず快適だった。この部分だけが後に「シベリア隊商紀行」としてドイツで公刊された。そうこうして、一年あまりをかけてベルリンに到着するも、誰もこの快挙を祝ってくれるでもなかった。唯一日本公使館の旧友だけがささやかに祝ってくれただけで、それほど知られてもいなかったし関心ももたれなかったということらしい。
そして新聞社などでの文筆の仕事をようやくに得て、なんとかドイツ生活がはじまるのだけれど、その間に日清戦争・日露戦争があり、喜作自身は日本をはじめとした東アジアと欧州との貿易のかけはしてきな意味もこめて月刊誌「東亜」を刊行し、これが人気を博して、ドイツ・ロシアはもとより、日本やアメリカ、はてはアフリカなどの諸国まで購読者を持つまでになり、戦時にあっては難民のための寄付を募ったり、ドイツに逃れてきた日本人のために手を尽くしたりと活躍するのだが、そういうことをまったく知らなかった。
日露戦争下にあっては、先のように明石元二郎のためにロシアやドイツの新聞・雑誌などを読み解いて、その情報を送っていたり。これだけで一大スペクタクルドラマが作れそうなくらいなのだが。
けれども、私のことを後回しにして他人の世話に奔走してしまう気性が災いしたのか、結核をわずらい、妻子をドイツに呼び寄せたものの齢 40 あまりで亡くなってしまう。ドイツ語で刊行された雑誌「東亜」など、喜作の残した功績は多大なものにも関わらず、まだまだその評価は不十分でもあり、知られていない。実のところ、末尾にも書かれているのだけれど、「本の雑誌」で北上次郎氏が書かれた「『玉井喜作伝』よ、早く出てこい!」を多分読んだのが、喜作を知ったはじめだったのではないかなと思う。
刊行からすでに 22 年が過ぎて、ちょうど「坂の上の雲」などがドラマ化されているけれど、しかし玉井喜作については、また忘れられてしまっているのだなあと、ふと思った次第。どこか、この波乱万丈の生涯を、ドラマとか映画とかにしてくれないかなあとも思ったり。いや、そんなことしたらゴテゴテに脚色されたつまらないものになってしまう可能性も高いのか。
「東亜」の全訳とか、ないのだろうかとも。
現実的には絶版ということだろうか。
キサク・タマイの冒険 湯郷 将和 新人物往来社 1989-04 by G-Tools |
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コメント
明治期のその頃の冒険譚だと、河口慧海の『西蔵旅行記』も面白いですね。
まあ、あの頃の日本には、今の感覚ではとても測りきれないような、スケールの
大きい人間が沢山いたんだなあと思います。
投稿: 黒豆 | 2011.02.16 13:39
きっと今だって知らないだけで、そういうとんでもない人がいるのかもしれませんけれど、時代というものを考えてもずば抜けているような印象はありますよね。
投稿: ムムリク | 2011.02.16 16:24