地球最後の野良猫
![]() | 地球最後の野良猫 (創元SF文庫 ) ジョン・ブレイク 赤尾 秀子 東京創元社 2010-06-10 by G-Tools |
本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。
致死性の新型インフルエンザを媒介するとして、猫がごく一部の企業によって独占的に管理された近未来。猫は、金持ちの娯楽でしかなく、野良猫はいなくなったと思われている。これまで生きた猫を見たことも触ったこともなかった少女の目の前に、なぜか野良らしき猫が姿を現して、ということからはじまる物語。猫好きだったとしたら、これだけで、なんだかひかれるものがあるというもの。
その期待にたがわず、物語の全編にあふれているのは、猫に対する愛情。猫の気難しさ、猫のやさしさ、猫のきまぐれ、猫の温もり。その後展開することになる、猫との逃避行の最中ですら、何度となく猫への思いがつむがれる。
けれども、正直にいって小説としては決して及第点は出せない。物語の 9 割以上を占めるといっていい逃避行のエピソードは、細切れな断片が多く、全体としての展開には欠ける。ある場所でなにかがあり、そこから離れてまたどこかでなにかがある。そういうものだといえば、そうかもしれないが、それがあまりに中間を省きすぎてエピソードの羅列に感じられすぎる嫌いがあるように思える。
もちろん、逃避行そのものは、それなりに楽しませてくれる。なんども危険を潜り抜けていくさまは、手に汗握るといえなくもない。ただ、いくら猫インフルエンザの予防の観点から、猫の管理が厳密にされているとはいえ、ただちに逮捕、逮捕できなければ殺してもよし、という展開の逃避行が延々繰り広げられるのは、やや異様にも感じるし、正直飽きる。
こうした展開について感じるのは、さながら小さな子が話してくれる自分が作ったお話だ。大人の考えるような常識的な展開など一切なく、なぜそんな展開になってしまうのかというくらいの展開を繰り広げて、あれよあれよといううちに、「おしまい」といって終わってしまうような。
そこで気がつくのは、訳者あとがきにもあるように、著者のほとんどの著作がジュブナイルだということ。子供向けの物語であれば、多少の脈絡の悪さは目を瞑るというものだし、物語のリズムがよければ、展開の悪さはひとまず置いておかれるのもわからなくはない。ただ、それが大人も楽しめる小説として、SF としてみた場合にどうかといえば、とてもそのレベルにあるとはいえないのは致し方ない。
物語の展開としたら、もっと管理企業の側の動きや、猫に自由をと訴える活動家たちの動きについても、描かれるべきだったのではないかと。そうして、たとえば管理企業の行動には偽りがあって、社会がそれにだまされているのだというのであれば、そうしたことも踏まえて展開されたほうが、物語に深みがでるというもの。そうした部分は逃避行を共にするクリスによって多少語られるが、それは本当にごく一瞬でしかない。
そうした深みのない展開が、いまひとつ読後感を悪くする。
著者は「欺瞞的なハッピーエンドはよろしくない」と言っているそうだが、はたしてこの結末は欺瞞的ではないのか? アンハッピーエンドなのか? 延々と逃避行を描いてきた最後が、この展開(企業がようやくかかわってくるということではなく、そのあとの本当の結末)では、どうにも釈然としない。むしろ、徹底的なまでに欺瞞ではないか。いや、なにをいおうとそれは著者の勝手なのではある。
もうひとついえるのは、根本的な文章の問題。なにをいいたいのかきちんと書ききれてないままであったり、倒叙法に整合性がなかったり。冒頭、少女の家が捜索を受ける場面から始まる。このとき少女は猫と一緒に屋根裏に隠れている。なんとか隠れおおせてから、猫とであったときのことを回想する。以下、その流れ。
- 猫を見つけた翌朝、猫をずっと飼いたいと母親に言い、結局名前を母親がつけて飼うことになる。
- その後三週間ほどは猫づけの日々。クリスに猫のことを話すことになり、彼が家に見にやってくる。
- 連日クリスがやってきて、母親はクリスに家の鍵を与える。
- 三日後、猫に異常がみられて、手をひっかかれたため、心配して病院を訪ねる。クリスに話すと通報されたらつかまってしまうぞと叱責される。
- その後、猫の様子が回復したので、安心して寄り添っているうちに、ソファで少女は眠ってしまう。
- 物音に目を覚ますと、大勢の男たちが家にやってきていて、猫を捜索している。暴力的に少女や母親にあたる。しかし、猫は見つからず、証拠になりそうなサンプルを採取して帰っていく。
- 翌朝、母親が亡くなっているのを少女が見つける。
男たちがやってきたのが二度目だという説明はないし、屋根裏に隠れたというエピソードもでてこない。仮にすでに捜索にこられた経緯があるなら、病院にいこうなどとはしないはずであるし、そうすると冒頭のエピソード自体が存在しえないような時間的位置にあることになる。この齟齬をどう説明したらよいのか。
さらに、以下の記述からどのような状況になったのかを読み取れるだろうか。クリスが盗んだトラックに少女と猫を乗せて、走って逃げている場面。
「フィーラが起きたわ」「そりゃおもしろい。おれは眠くなってきた」
「だったら車を停めたら?」
「まさか。一気にフェリー乗り場まで行くんだ。今夜じゅうにね」
と、そのとき、耳をつんざくような金属音が響きわたった。ふたりとも前につんのめり、トラックはとつぜん減速して、フィーラのキャリーが前方に飛び出す。金属音はトラックが完全に停止するまでつづいた。
「くそっ」クリスの口から悪態がもれる。
わたしはあせってキャリーの蓋をあけ、ほっと胸をなでおろした。フィーラは怪我もなく問題なし。そこではじめて、トンネルふうの場所にいることに気づいた。窓の外はレンガの壁だ。
「どうしたの?」小声でたずねる。
「わからない。考えてもしょうがないさ」
「だけど、クリス・・・。うしろの荷台が運転席の上にあるわよ」
「だな」
「これからどうする?」
「おまえがどうするかは知らないけど」と、クリスはいった。「おれは少し眠りたいよ」
(P.107-108)
窓の外にはレンガの壁があるトンネルふうの場所。にもかかわらず、トラックの荷台が運転席の上にある。それでいて、運転席にいる二人には怪我もなにもない。そもそもトンネルだとしたらそんなふうに荷台が運転席の上に二つ折りになるようにして、存在できるものか? はたしてそれほどになる現象はどのような力によってなされたのか? 超自然的な力? 一見意味不明に思える P.K.ディックでさえ、こんな描写はまずしない。
さらに、その場面の次に続くのは、章を変えて、次の文章からだ。
わたしたちは、<民宿チェスナット>の前に立ち、ほかの方法はないかと考えていた。(P.109)
車は二つ折りになるような状態でも、特に怪我することもなく宿までやってきてしまう。この物語はスーパーヒーローものだったのか。
設定は十分に魅力的だった。展開もジュブナイルなのだと割り切れば、それなりに楽しめた。しかし、総合的に見たら、なんとも残念な作品だったといわざるを得ない。あるいは、設定にたいする期待が大きすぎただけなのかもしれない。
猫への並々ならぬ愛情だけは、十分すぎるまでに伝わってくる。過度な期待はせずに読むのが吉な作品なのかもしれない。
猫 SF というわけではないけれど。お薦め度はこちらのほうが高い。
![]() | 夏への扉 (ハヤカワ文庫SF) ロバート・A. ハインライン Robert A. Heinlein 早川書房 2010-01-30 by G-Tools |

地球最後の野良猫
- ジョン・ブレイク
- 東京創元社
- 903円
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