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イマココ


4152091266イマココ――渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学
コリン・エラード:著 渡会 圭子:訳
早川書房 2010-04-22

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 本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。

 はじめに断っておきますが、今回は特に長文となっています。

製本姿

 のっけから恐縮ではあるけれど、読まれるということを拒否する、この本のデザインは、なんとも不快。ハードカバーの背を平らにしてしまい、あろうことか厚紙を当てているために、90 度以上開こうとすれば、本みずからがそれに抗って閉じようとする。普通、背の部分が丸みを帯びているのは、それによってページを開きやすくするという意味があるのであり、しゃれたデザイナーによるのかもしれないが、読まれることを拒否するようなデザインは、もはや本としての意味をなさない。そういう意味では、本書は読むに値しない、と言ってしまってもよいのだけれど、それも大人気ないことなので、別問題として。

 空間認知の科学、と副題された本書。前半となる第1章では、生物が空間をどうとらえているのか、といったことについて主に書いている。続く、第2章では、私たちの暮らす社会における空間認知について、住宅からオフィス、そして都市といった具合に次第により大きな空間に視点を移しながら、それぞれの空間認知に関してさまざまな話題・知見を広げていく。

 生物の空間認識、主に帰巣に関わるしくみについての考察では、サハラサバクアリや伝書鳩などが例にあげられている。サハラサバクアリは、エサを求めるために巣を離れて進んでいくときには、うろうろするように進んでいくが、エサを見つけると、たどった経路をフェロモンを頼りに戻るのではなく、最短距離になるような直線で巣に向かうと説明。ただ、書かれている説明では、それが本当に経路積分によって、いわば自分の位置を巣からの相対位置として把握しているのかを判断するのは、やや難しい。著者は証明されたというのだが、証明にしてはあまりにあやふやなのは否めない。もちろん、本書におけるその部分は本論ではないにしても、持論に誘導するための方便に見えてしまうのが残念。

 人が迷うのはなぜか、という問いに対しては明確な説明がない。生物の場合、アリの経路積分や伝書鳩の地磁気の例などが提示され、人間にはそうした能力がないため、迷うのだといった雰囲気だけで終ってしまうのは、いささか不満。さらには、

 自分の家のようによく知っている場所でも、停電して暗くなっただけで歩けなくなってしまうことを思えば、人間がちょっとしたことですぐ道に迷い、ときとしてひどい目にあうのもおどろくにはあたらない。(P.61)

というのは、ちょっと違うのではないかとも。暗闇で行動の自由をうばわれるのは、仮に人間だけだとして、それは自分の絶対位置や目的地との相対位置を把握できる能力の有無なのか、はたまた、それ以外に夜目が利くかどうかも関与しているのかということの切り分けがまったくできていない点を抜きにして、結論づけるのは、あまりにも意図的。

 少なくとも人間の場合、暗闇ではそもそも視覚が得られないのでどうにもならない。視覚が得られる明るい場所ですら迷うのはなぜなのか、ということが知りたいと思っているとがっかりする。人は地図を持って歩いていても、迷うことがあるわけで、そこを掘り下げないと本質が見えてこない。

 とにもかくにも、人間には他の生物のような絶対的な空間認知能力がないために、迷うらしいということで、内容は次に進んでいく。

 そこで第2章では、人の生活と空間認知に関してを、より身近な住宅からオフィス、そして都市、大自然、果ては、サイバースペースへと広めながら、解き明かしていく。この部分は、素直になかなか面白い。住宅のなかで、人が居心地よく思う場所には、どんな共通点があるのか。働きやすいオフィス空間は、どうあるのがよいのか。そのいずれにも関わってくるのが、「人が人をひきつける(引き寄せる)」といった言葉や「スペース・シンタックス」といったキーワード。「パターン・ランゲージ」のアレグザンダーなども引き合いにだしてくるあたりも、なかなか興味深い。自然と人が集まってしまう場所、人が集まらない場所。都市にしろ、自然にしろ、家庭にしろ。そこには少なからず理由があるわけで、そこを理解できなければ、よりよい場所つくりはできないといったことが、次第に見えてくる。

 もっとも、住宅においては日本と欧米ではやや感覚が違う部分もあり、いまひとつしっくりしないところもある。

 さらに、話は進んで、最終的にはどうやら環境問題に行き着くらしい。

 どのような提言が最終的になされるにしろ、私たちが将来も存在し、幸福でいられるかどうかのカギとなるのは次のことだ。すなわち、人間の空間との精神的なつながりが、場所の理解にどう影響するかを徹底的に理解すること。現代の生活の多くの側面は、人間の空間理解の方法と密接につながっている。私はこれを明らかにすることで、人間の神経構造や生物学的に受け継いできたものをどのように調整するべきなのか、より深い認識へとつなげたいと考えている。この世界に快適で、幸福で、持続可能な居場所を見つけるために。

 私たちはどこにいるのか? 私たちはここにいる。将来私たちがともにいられるかどうかは、人と場所とのつながりがもたらすものの深い真実を感じ、理解する道を見つけられるかどうかにかかっているのだ。(P.311)結文

 世界的な環境を人がイメージできるということは、たしかに必要なことかもしれないけれど、そのことが人類の存亡にとって欠かせないのだというのは、いささか飛躍しすぎのようにも思うのだが。というか、いったい著者はなにを言いたかったのか、と。環境問題を訴えたかったのか? 単に空間認知というものの概論を書きたかったのか? 結文だけを見れば、環境問題を訴えたかったというところに落ち着いてしまいそうだ。としたら、サイバースペースは必要だったのだろうか? 電力消費の観点から代替エネルギーについて触れるために必須だったということだろうか。いささか疑問。

 著者は話題を提示するだけで、そこから何を言いたいとか、なにが分かったといったことに触れないまま、話題を次に進めてしまう部分が非常に多い。恐らくは自分の中で完結してしまっており、それを十分に書き出すことができないままに、いわば思いついたままを書き連ねたとでもいう部分ができてしまったのではないかと、思うくらいに。そのためか、第2部などは、なかなか興味深い内容であるにも関わらず、読後感があまり残らない。なんとも残念な本になっているような気がする。

 ちなみに帯には、

ビルの谷間で、ウェブの海原で、道を見失わないために。

豊富な事例でナビゲートする、空間科学の最前線 「ヒトの空間認知の仕組み」がわかると、こんなことがわかります

 と、以下いくつかのことがらが示されているのだけれど、正直言ってすっきりと明らかにされているとは、言いがたい。比較的具体的なものもあるし、ヒントになるものもある。けれども、大半は期待するような答えは書かれていないといっていい。

 本書は冒頭にも触れたように、読まれることを拒む本である。加えて論旨がいまひとつすっきりしない本でもある。ゆえに、なにか目的を持って、その明確な答えを期待して、本書を読もうと思う人には、あまりお薦めできない。残念ながら。おおまかなヒントでよいのであれば、別であるけれど。

 おそらく、本書でもっとも有益なのは、解説のかわりに書かれている濱野智史氏による補論かもしれない。もしも、それぞれについてのより確かな情報を求める向きには、他のすぐれた書籍を参考にされることをお薦めします。


 なぜ私たちが道に迷ってしまうのかを知りたければ、「人はなぜ道に迷うか」(山口裕一:著)を。

4480041907人はなぜ道に迷うか (ちくまプリマーブックス)
山口 裕一:著
筑摩書房 1995-07

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日本の住宅にかかわることであれば、「住まい方の思想」(渡辺武信:著)などを。

4121007026住まい方の思想―私の場をいかにつくるか (中公新書 (702))
渡辺 武信:著
中央公論新社 1983-01

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オフィスというか建物の内部の空間、特に買い物に関してより考えるのであれば、「なぜこの店で買ってしまうのか」(パコ・アンダーヒル:著)

4153200069なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 (ハヤカワ新書juice)
Paco Underhill
早川書房 2009-09

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などが、非常に有用です。


 以下は、気になった部分など。

 ウェーナーはこのアリの動きに、おどろくべき秘密があることに気づいた。アリがエサを探しているときは、戻れる範囲で(およそ半径200メートル)一見ランダムにあちこち向きを変えながら進む。しかしエサを持って戻るときは、巣までまっすぐな直線のコースを通って帰るのだ。

 すぐに迷子になる人間とちがって、このアリは自分が今どこにいるかをつねに把握しているようなのだ。なぜそんなことができるのだろう? ひとつの可能性としては、巣から匂いのようなもシグナルが発せられていて、アリがすぐその位置を正確に察知できるということだ。アリが仲間の通った道を、匂いをたどって追いかけることがあるという話は有名なので、それは考えられる。しかしウェーナーは単純だが巧妙なテクニックを用いて、アリが匂いを追っているわけではないことをことを証明した。アリが砂漠でエサを見つけると、ウェーナーはそのアリをつまんで他の場所に移動させた。するとアリは、動かされてなければ巣があった「はずの」方向へまっすぐに向かった。アリが巣の位置とそこまでの距離を推定し、その情報を絶えずアップデートすることによって巣の位置を確認していることが、これで証明されたのだ。(P.64)

 歩いた経路に匂い物質をまいて、それをたどっているのではなさそうだとしても、巣の匂いをたどっていることを否定するためには、この記述だけでは不十分なのでは?

 仮に、巣から真西へ 200 メートルの地点でエサを見つけたとする。このときに、北へ 1 メートル、アリを移動させて置いたとしても、巣への方向に大きな差はない。200 メートル北まで移動させて置いた場合に、真東に向かったのであれば、確かにそうであろうと結論づけることは可能だろうけれど、そこまではわからない。もちろん、本論はそこではないので、本書がどこまで詳細に記述すべきかは、異論もあるだろうけれど、少なくとも読者にとっての判断基準は、ここに書かれたことだけなのであるから、それをもってして「証明された」というのは、無理がある。

 また、

 自分の家のようによく知っている場所でも、停電して暗くなっただけで歩けなくなってしまうことを思えば、人間がちょっとしたことですぐ道に迷い、ときとしてひどい目にあうのもおどろくにはあたらない。(P.61)

としているが、暗闇で人が自由に行動できないことと、道に迷うこととは、少々事情が違う。同列に扱うのであれば、アリや他の動物の実験(伝書鳩やマウスなど)においても、匂いの要素を排除したり、視覚を排除した条件下で行って検証する必要があるはず。視覚を奪っても巣に戻ったというのであれば、視覚に頼らない空間認識能力を有しているといった判断までできる。しかし、そうしたところまで確認することはできない。(アリの下への視野を奪った実験はあるようだが、完全に遮断した実験については触れられていない)

 とはいえ、現状で考えられている帰巣する生物の仕組みとしては、経路積分能力であるとか、地磁気を感知できるとか、といったことについて、説明されていく。ただ、やはりいずれの説明もいまひとつ肝心なところが不足しているようで、物足りない。簡略であっても、「証明された」などと書くのであれば、十分に納得できる記述は必要かと思う。

ジャイロスコープの図
(ジャイロスコープの図)(P.72)

 赤い円で示した部分の、回転軸と縦方向のジンバル(輪)の前後関係が間違っている。

 トールマンはまずラットを小さな四角い箱に入れ、丸い部屋を通って細長い通路に入るよう仕向けた。その通路をしばらく走ると壁に突き当たり、直角に右に曲がらなければならないが、そこを通り抜ければおいしいエサにありつける。

 ラットがエサまでの道筋をおぼえると、トールマンは迷路の形を大きく変更した。まず丸い部屋からつながっていた細い通路を途中で封鎖し、図3に示したように、いくつもの通路を放射状につくった。エサの位置は変わらない。
 ラットはどんな行動を取るだろう? (略)しかしトールマンが見たのは、はるかに興味ぶかい行動だった。実験に用いたラットのほとんどが、すぐに報酬であるエサに続く道を選んだのだ。エサの位置は前と変わっていないにもかかわらず、だ。
 この結果が示すのは、このラットたちがスタート地点である箱とエサの位置関係を理解しており、これまで見たことのないルートを見つけられたということだ。(略)まるでラットの頭の中には、その迷路を上から見た地図があり、そのおかげで予期せぬ状況の変化にも対応して、一番効率的な道を見つけられたようだった。
 (略)ラットも頭の中に地図のようなものを持っていて、それを使って問題を解決できることがわかったという意味で、本書においてもこの発見はとても重要である。(P.105, 106)


図2 トールマンが用いた迷路
図3 トールマンの迷路のバリエーション

 この説明と図を見る限りにおいては、むしろ、ラットはその発達した嗅覚でエサの匂いを嗅ぎつけたために、近道を選んだだけと思えるのだが、どうだろう。匂いの要素を排除した実験であれば、絶対的な位置を把握していて、そちらに向かっていると思われる通路を見つけたので、そちらに向かった、と考えることも可能ではあるものの、この記述だけで、そう判断するのは無理があると思うのだけれど。


 大半の文化では、左より右のほうが格が上ということになっている。(略)しかしおもしろいことに、アジア文化では左のほうが格が高い。アジアでは基本方位が南なので左が日の昇る側となり、特別な意味合いを与えられているのだ。(P.124)

 あまり実感がない。

 ラポポートの主張によると、人が暮らす家の形は、少なくとも生存のために必要な基本的要素と同じくらい、持ち主の信念や価値観、文化について物語っているという。ひとつ例をあげると、丸い形の家はとても経済的だ。建てるのが楽だし、さまざまな種類の建築資材を使うことができる。にもかかわらず、丸い形の家はめったに見られない。その理由のひとつとして、方位がわかりにくいことがあげられる。世界のたいていの文化では、広い視野で見たときの部屋の方位や、近所の建物に対する部屋の方位が重視されるのだ。(P.149)

 丸い形の家は建てやすいのか? パオのような移動するために簡易で組み立てができる形式の丸い家、というのであれば、それは建てやすいと思うが、丸い形状の部材を用意するのはまっすぐなものを用意するよりも、よほど面倒が多いとは思うが。ましてテントではなく、恒久的な住まいとするのであれば、なおのこと。

 方位がわかりにくいというが、たいていそうした場合には、たとえば台所を北側にとか、入り口は東にとかいったように、個人的、あるいは部族などの経験的な慣習として、方位を取り入れていると思うのだが。なにより、四角い家でもそれは概ね同じことでしかない。部屋が四角いから方位がわかりやすいわけではなく、実際の方位と家のつくりや部屋のつくりとの対比に意味をもたせているからにすぎないのでは。


 この、部屋を方位に合わせてつくるという考えの極致が、東洋で行われている風水だ。(略)彼らはベッドや便器を正しい方角に向ければ、富や平和や幸福な結婚が手に入ると主張している。(略)自然、超自然にかかわらず、家と外の世界を結びつける風水などの文化を実践するのは、正方形や長方形の部屋という境界がない家では難しいかもしれない。(P.149-150)

 丸い家は方位が分かりにくいのだという。では、四角い家は方位がわかりやすいはず。しかし、風水を実践するのは難しいという。矛盾していないだろうか?

 ときには空間の形によって人の動きを操ろうという戦略が、数学的な分析を行わずともわかる場合もある。たとえば、ほとんどの方はお気づきだと思うが、食料品店は客の往来を増やすというはっきりとした戦略のもとに設計されている。そのため店の入り口からなるべく離れたところに乳製品売り場があるので、ミルクを買おうと急ぐ客は、買う予定のない品物がならぶ通路をいくつも通らなければならない。(P.169)

 日本とは事情が違うのかもしれないが、この論理からすると、乳製品を求める人がもっとも多いので、一番奥まったところに売り場が設置されているという論理になると思うのだが、そういうわけでもあるまいに。

 と、思ったが、基本、アメリカではそういう認識があるらしい。

スーパーマーケットで乳製品はたいてい奥の壁ぎわにある。ほとんどの客はミルクを買うので、そこへ行く途中か、そこから帰る途中で、店全体を通って買い物をする。これはかなり効果的である。あるいは、少なくとも昔はそうだった。だが、これが競争相手に絶好の機会を提供することになる。実際、コンビニエンスストア業界が存在するのは、ミルクなどの必需品を客の手の届くところに置くこと、つまりとびこんでくるなり、品物をつかんでてていくことが可能だからだ。一部の新しいスーパーマーケットでも、「浅いループ」を打ちだしているところがある。

(「なぜこの店で買ってしまうのか」)

 とはいえ、後半にあるように、必ずしもそうではない状況も生まれているようではある。「なぜこの店で買ってしまうのか」が出版されたのは 1999 年で、本書は 2009 年出版である。

 日本のスーパーでいえば、ほとんどその大まかな配置には黄金ともいえるようなパターンがあって、大筋ではそれに従っているだけだ。もちろん、それはお客を中へ中へと誘いたいという思惑も、なくはないだろうが、それよりも別の理由というものも存在する。たいていは、入り口付近に野菜や果物、そして、魚、肉、乳製品、冷凍食品といったところが。実際には直線ではないので、その間に調味料やお菓子や、その他もろもろあるわけではあるし、乳製品がもっとも奥というわけでは必ずしもない。どちらかといえば、より低温で管理したい食品は店の入り口から離れたところにという考え方だと思うのだけれど。


 ホワイトの観察をはじめとして同様の研究の多くが、家や職場、公共の建物などの内部空間の例で見たように、空間の形には人が行く場所や集まる場所を形成する力があることを示している。道路や囲いは、ちょうどうまくデザインされた容器が油をこぼさずに皿へと移せるように、私たちをある場所から別の場所へとスムーズに移動させるのだ。(P.203)

頭の中に描かれた空間は、計量的ではなくむしろ位相的であるため、位相学に基づく物理的空間の説明でうまく理解することができる。(P.210)


 転機となったのは、新たに開発された隣の地区の会社へ通う人々が、数分を節約するため私の家の前の道路を使うようになり、交通量が増えたことだ。(略)私たちは、抜け道として使われている道路を通行禁止にすることを提案した。そうすれば金もかからず、そこに住んでいるだれも損はしない。すると市の役人は、そんなことをしたらそのまわりの地域が分断されると言う。通行禁止となった道路のそれぞれの側の住人は、もうお互いの家を行き来できなくなる。私たちが、周辺の住民は歩いて互いの家に行けばいいと言うと、交通工学の専門家は、「彼らはそんなことはしない」と、ぶっきらぼうに言いはなった。(P.224)

 この車依存社会は、ある意味日本にも蔓延している。


 実のところ、クリックをくり返しながらウェブサイトからウェブサイトへと飛んでいく行為には、私たちが頭の中で空間をどう処理しているかが映し出されている。インターネット上の各サイトは、位相の中のノードとして互いにつながっている。私たちがリンク先をクリックするさい、ふつうは見ているサイトの出所がどの方向で、どのくらいの距離が離れたところにあるのかまったくわからないし、それを気にすることもない。これは日常生活の中であちこち移動しているさい、空間の形状をシンプルな位相に還元してしまう私たちの性質の極端な例だ。(P.240)

 それは本当に空間認知によるのだろうか?

 しかし言葉や姿ばかりでなく、動作、ボディランゲージ、顔の表情、身体的なふれあいまでリアルに再現できる高度なバーチャル世界がこれまでと違うことがある。それは、かなりの程度まで、人に本当でないことを本当だと思い込ませることができるという点だ。そうしたテクノロジーが広く普及すれば、パンドラの箱が開かれる。そうなってしまえば規制は難しく、たとえ規制しようとしても失敗するだろう。こうしたテクノロジーが本物の人間関係を破壊するのを防ぐために、私たちができるのはせいぜい、バーチャル世界の力と限界の両方を学び、理解するための行動を、いますぐ起こすことだ。(P.257-258)

 仮想と現実の区別がつかないような時代がやってくれば、顕在化しそうな予感はある。けれど、すでに仮想と現実の融合は進んできている。


私たちは過去の歴史から、つくることが「可能な」ものは、いつか必ずつくられるということを知っている。(P.263)

 私たちがちがうタイプの空間(内と外、都市部と田舎)を結びつけることができないのは、人間の頭のつくりと、人間と空間との関わりかたに原因があると、私は考えている。目の前にある空間は実によく把握できる。だがその空間がもっと大きな領域と、見えないところでどうつながっているのかについては、あいまいにしか理解できないのだ。(P.267)

 子供にとっては、たしかに自分が知っている範囲の外の世界は理解や想像ができない。大人にとってはどうだろうか?


 こうしたバイオフィリアの仮説を支持する証拠となりそうなものは、すぐに思いつくだろう。たいていの人が動物園に行く回数は、すべてのスポーツ観戦の回数を合わせた数より多いのだ。(P.277)

 アメリカ人はどうか知らないが、この断定は、はなはだ疑問に思うのだが。


 私たちは子供たちをテレビやパソコンから引き離して、広々した屋外に出す戦いに、どうすれば勝てるのかを知らない。(P.283)

 何より重要なのは、親が視点を変えて、子供から自然空間を探索する機会を奪うことで、何を失っているかを認識すること、そしてよく手入れされているが使われない芝生のかわりに、ミステリーと課題に満ちた複雑な空間を提供することだ。

 さらに野心的なプロジェクトがカリフォルニア州バークレーで行われている。不動産に関する講演などを行っているある人物が、時間をかけて街の住宅地一ブロックを丸ごと手に入れ、柵やガレージや舗道をなくし、広々とした共有の緑地をつくった。この地域についての初期の調査結果から、従来の区画配置の地域より、住人は外の環境とのつながりが強く、近隣住人同士の関わりも多いことがわかった。
 学校も子供の空間スキル発達に、もっと大きな役割を担うべきだ。・・・(P.288)

 著者に多いのは、上で示したような、完結しないまま終ってしまう話題が多いということ。「さらに」から「多いことがわかった。」までの内容は、なんとも中途半端だ。共有の緑地を作ったことによって、なにが起きたのかについてはまったく触れられていない。それによってよい変化がおきたというのであれば、そこまで書いてはじめて意味をなすと思うのだが、どうだろう?


 空間ともっと強い結びつきを持つよう子供たちを教育する。都市の中心の一部として機能するよう公園の設計を見直す。Wi-Fi のネットワークを活用して、歩行者が自分の動きと街の通りに対応した音を聴けるようにする。これから二世代のうちに地球が干上がって炎に包まれる恐れがある、と多くの専門家が指摘している世界を前にすれば、これらは取るに足らない提言かもしれない。都市、郊外、公園の設計の見直しという提言は、タイタニック号のデッキチェアの配置を変えるよう求めるのと同じようなものかもしれない。

 もし私がこの章で提案したことが、これまで受け継がれてきた自然を破壊する方向に向かっている現在の流れをひっくり返すことができるのなら、そうした反論にも意味があるだろう。しかし、他のもっとドラマチックな方法が導入されなければ、私の提案が何らかの利益をもたらすことはない。(P.299)

 それが環境問題を解決するとは、残念ながら思えないのだが、著者は本当にそれを信じている? しかも、論理が破綻している。自身の提案が現在の流れを変えられれば、その提案が取るに足らないという反論に意味があるという。また、別の方法がなければ、自分の提案が利益を出すこともないと。つまり、なにを言いたいのだろう?


 どのような提言が最終的になされるにしろ、私たちが将来も存在し、幸福でいられるかどうかのカギとなるのは次のことだ。すなわち、人間の空間との精神的なつながりが、場所の理解にどう影響するかを徹底的に理解すること。現代の生活の多くの側面は、人間の空間理解の方法と密接につながっている。私はこれを明らかにすることで、人間の神経構造や生物学的に受け継いできたものをどのように調整するべきなのか、より深い認識へとつなげたいと考えている。この世界に快適で、幸福で、持続可能な居場所を見つけるために。

 私たちはどこにいるのか? 私たちはここにいる。将来私たちがともにいられるかどうかは、人と場所とのつながりがもたらすものの深い真実を感じ、理解する道を見つけられるかどうかにかかっているのだ。(P.311)結文

 どうやら、人類の存亡は、我々の空間認知能力如何に関わっているらしい。それは、つまりマトリックス世界ってことかなあ。

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ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-12-17

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