須賀敦子全集 第1巻
![]() | 須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫) 河出書房新社 2006-10-05 by G-Tools |
もう二十年もまえのことになるが、私がミラノに住んでいたころの霧は、ロンドンの霧など、ミラノのにくらべたら影がうすくなる、とミラノ人も自負し、ロンドンに詳しいイタリアの友人たちも認めていた。年にもよるが、大体は十一月にもなると、あの灰色に濡れた、重たい、なつかしい霧がやってきた。朝、目がさめて、戸外の車の音がなんとなく、くぐもって聞こえると、あ、霧かな、と思う。それは、雪の日の静かさとも違った。霧に濡れた煤煙が、朝になると自動車の車体にベットリとついていて、それがほとんど毎日だから、冬のあいだは車を洗っても無駄である。ミラノの車は汚いから、どこに行ってもすぐにわかる、とミラノ人はそんなことにまで霧を自慢した。「遠い霧の匂い」
NHK 教育の ETV 特集での番組を見てから、あらためてきちんと読んでみたいと思っていた須賀敦子。ありがたいことに今は全集が文庫版でもでているので、そちらを読んでみた。この不思議な染み込みやすさは、いったいなんだろう。
第1巻に収められているのは、「ミラノ 霧の風景」と「コルシア書店の仲間たち」「旅のあいまに」の三冊分。いずれも主には、須賀さんがイタリアで出会った人々との思い出などが語られていて、時に困らされたり、時に支えてくれたり、泣いたり笑ったりしつつ、一緒にひとつの時代を生きていったその空気がじんわりと伝わってくる。
別にイタリア人特有のなにかが語られるというわけでもなく(もちろん、そういう時もあるにはあるが)、誰もが日々経験するような、かつて経験してきたような、そんな友人・知人との日常が語られるだけなのに、なぜ、こんなにも読ませてしまうのだろうかと。そこに、なにか崇高な命題を見出して、教訓めいたことを訴えるでもなく、須賀さんが体験した事実をありのままに語っているだけにもかかわらず。
いや、それだからこそなのだろうな。さながら自分がイタリアのその地にいて見聞きしているかのような、登場する人々を目の前にしているかのような、そんな錯覚というか違和感のない世界に取り込まれるような、洗練された文章の魅力。
その多くは、おそらく何度もなんども考えに考えられ、練りにねられた文章のもつ巧みさとでもいう妙なのだろうなと。
基本的に一文が長い傾向がある。読点でたくさん区切られているものの、決して読みにくいわけではなく、きちんとつながりを理解させるために吟味してつけられた読点であって、だから、読み手のリズムにしっくりときて、読みやすく、意識せずに理解させてしまうような不思議な魔法のような文章とでもいうか。(というこの文章が分かりやすいかは不明だけれど)
もちろん、登場する友人たちの人間的魅力にも、多分に影響されているところがあると思うわけで。なかでも、ガッティは特に印象に残る。
コルシア書店で出版の責任者として活動していた彼は、本職でも出版社で編集をして生活しており、やがて、本職の忙しさや生活のもろもろの事情、さらには彼のみならず書店に関わるすべての人々に起こるさまざまな状況の変化、時代の変化や教会の圧力、などから次第に書店の出版活動が滞るようになっていく様を追うのは、少しばかり切ない。
思いがけず、自分の子供のような年齢の妹ができることになってしまったできごとを書いた「小さい妹」では、少し想像や印象からは違った彼の姿を見ることになる。とまどいやある種の嫌悪、誤解に対する恐れといったものが、やがて小さな妹の誕生を迎えて、溺愛する愛情や保護する親のような目に変化していく様も、ほほえましくも興味深い。
そうしてみると、文章の卓越した美しさ・うまさはもちろんのこと、作品としての魅力を与えてくれている大きな要素は、須賀さんが出会った友人・知人の魅力でもあるのだろうな。金持ちもいれば、貧しい者もいる。けれど、金持ちでも不遇な人も多いし、貧しいけれどささやかな幸せに包まれている人も多い。須賀さん自身にしても、当時にして海外留学し、親からの仕送りで贅沢ではないにせよ、困らない生活ができていたというわけで、お金に困る家庭ではなかったのは事実。といって、彼女のまわりに魅力的な人々が集まってきたのは、そうした理由はないのだから、人をひきつけるなにかがあったか、彼女自身がそうしたところへ近づいていける運とでもいうものを持っていたのか。
それにしてもイタリアでの生活から 20 年以上をへて、よくこれほどに様々なことを覚えておられたものだなあと、感心する。部分的には、覚えていないことは覚えていないとしっかり断られているものの、比較的細かなところまでよく記憶されている印象がある。自分自身のことを思っても、そこまで記憶しているだろうかと、ふとあやふやな想い出をたぐりよせようとしてみるが、それこそミラノの霧ではないけれど、おぼろげな記憶でしかないと、あらためて思う。
それほど強烈な印象を残すような日々だったのかもしれない。また、時間を重ねることで、醸成されていった記憶が卓越した言葉として完成していった一因なのかも。
言葉を磨いていくためには、やはりすぐれた言葉にふれる必要があるはずで、それがないがゆえに、平板で無味乾燥な言葉しか扱えない人も増えているような印象もする昨今。現代日本人がぜひとも読んでおきたい名文のひとつ、として永らく読み継がれて欲しいなと、素直に思う。
ひとつの言語をゆたかに扱えずに、どうして他の言語を習得することなどできようかと。
おりしも新しい出会いの季節、春。すこしばかり、そうした新しい出会いがあるといいなあ。
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