蛇、もっとも禍し
蛇、もっとも禍し上】 (創元推理文庫) 甲斐 萬里江 東京創元社 2009-11-10 by G-Tools |
本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。
まずもって訳注のあるミステリというものがかつてあっただろうか、というあたりで驚いた。七世紀アイルランドを舞台にしているということ、さらに修道院など当時の宗教環境にかかわる事件であることもあって、理解を助けるためにもこれらの訳注は必要不可欠といっていい。
物語の随所にでてくる用語などについては物語のなかで自然に説明されるのだが、それが本当に自然でいかにも説明しているというふうもなく、それでいて古の言葉の解説というふうでもなく、実に自然に物語に調和していて読み手を阻害しない。これはひとえに作者の文章力の高さと、困難な翻訳を見事になしとげて古きアイルランド世界を現代の日本語に融合させたとでもいうような翻訳作業の妙といっていい。
歴史的な背景を映し出すためもあるとはいえキャラクター造型もすばらしく、このキャラクターなくして物語はなりたちえないであろうと思わせる。主人公であるフィデルマなどはあまりに理知的であり、やや傲慢にも感じられる部分もあるにはあるが、人としての弱さのようなものも本作にはあってホッとする面も。前作までにはあまりなかったことらしい。
物語は修道院の井戸から若い全裸女性の遺体が見つかったことに端を発する。ただ、その遺体には頭がなかった。体には虐げられたとおぼしき痕。手にはなにやら暗示するかのような磔刑像十字架を握り締め、腕には古代文字の記された木片がくくりつけられて。その木片はフェーと呼ばれる墓穴の寸法を測るのに用いられる道具。
それらの謎を探ろうとしていくと、修道院の中でも外でも、この地には邪悪な空気が満ち満ちていることが見えてくる。どの者も狡猾な蛇のように見えてくる。どの言葉が確かで、どの言葉が偽りであるのか。ひたすらに事実を積み重ねて全容の解明を図る展開は、さながら冒険小説のよう。
調査のさなかにもさらに一人が同じような姿で殺害されるにおよび、修道院の緊張は極限にも達し、宗教的な背景もうけて事件は混迷を増す。
やがて冒頭にあった無人商船をめぐる事件と、それらが融合して事件の全容が見え始める。
結末にいたる過程も実に見事に組み立てられていて、全体で 600 ページあまりの長さにもかかわらず、なかなか読む手を止めさせない。現代のわたしたちには到底想像もつかない古の物語であるのに、その時間的・空間的距離を感じさせることなく、むしろこの舞台でなければなりたちえない大いなる物語の魅力にすっかり取り込まれていく。フィデルマ恐るべし、トレメイン恐るべし。
さて、物語のなかでは触れられなかったがアイルランドにおける「切断された頭」には意味がある。事件の解明においては十字架やフェーなどと同様に、修道院に対して恐怖を与える効果を狙ったものといったことしか語られない。キリスト教に改宗されるまえの古きアイルランドの教えのころの地域の歴史や、アイルランドの法ではなく別の法との確執なども事件に影響してくることを思うと、触れられてよかったのではないかとも思うのだが、それはなかった。
それは古きアイルランドを含むケルトでは、頭蓋骨崇拝があったということ。姿の見えない古の異教の影におびえる恐怖を示すにはかっこうのものかと思うのだが。暗にそうした意図も含んでいたのかもしれないけれど、時代背景と物語の特徴を考えればもったいないようにも思う。
教会による禁止にもかかわらず、「切断された頭」に対する崇拝は、中世の伝説やイギリス・アイルランドの民間伝承で重要な役割をはたした。(中略)
ケルト人のあいだでは、頭蓋骨はまずもって神から授かった聖なる力の集積所であり、その持ち主をあらゆる危険から保護するとともに、健康や財産や勝利を保証するものであった。
「世界宗教史2」(ミルチア・エリアーデ)
もちろんそれはごくごく補足的な事柄にすぎない。卓越した文章力と構成の妙に水をさすものではまったくないので、素晴らしきフィデルマワールドを存分にご堪能を。
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