グリーン革命 温暖化、フラット化、人口過密化する世界
グリーン革命(上) 伏見 威蕃 日本経済新聞出版社 2009-03-20 by G-Tools |
グリーン革命(下) 伏見 威蕃 日本経済新聞出版社 2009-03-20 by G-Tools |
本が好き!経由で献本していただきました。ありがとうございます。
一見したところでは、地球環境問題を考える本という受け止め方をしてしまうが、その実はビジネスの本である。というのがおおざっぱな本書の立ち位置。
だからこそ私はこの本の随所で、エネルギー気候紀元の難問に相対するのは、いくつものあらたな危険に直面することではなく、いくつものあらたなビジネスチャンスを出迎えることなのだと、何度も力説してきた。(下・P.284)
とはいえ、それは綿密に調べあげ、分析された現状から導きだした、地球の未来への展望を実現するための方便にすぎない、というのもまた真実。
誰しも昨今のさまざまな状況(気候がなんだかおかしいのではないのかとか、自動車を走らせるための燃料を作るために食料を不足させている状況であるとか)から、なにかを変えるべきなのではないかという感想は持ちやすいけれども、いざそうしたエコロジーな方向への転換はビジネス的なうまみが感じられないとか、面倒だとか、さまざまな理由をつけて後回しにされたり、結局ないがしろにされているのが現状であるという現実。
それを打破して堅実に実行に移す可能性を秘めたキーワードが、この本の中には詰まっている。
原題であり、副題にも掲げられている「温暖化、フラット化、人口過密化」のうち、フラット化については前著「フラット化する世界」を知らないのでどういう意味かつかみかねたけれど、つまりは世界の多くの人の生活がそこそこにあがってきて、テレビを見たり車に乗ったり、携帯電話を持ったり、インターネットを使ったりといったことが普通にできるような人々が増えてきたことで、世界が平準化されてきたことを示しているらしい。
もちろん、いまだに貧困に苦しむ人々が多く存在するのもまた事実ではあるものの、一方で著者の言う「アメリカ的な生活をする人々」もしくは「アメリカ的な生活を望み、それが実現可能な人々」の増大は確かにあるのだろうなと感じられる。
ドーハと大連は、フラット化と人口過密化が出会うとどうなるかを、如実に示している。世界の総人口は、1955年の30億人から2050年には90億人に増加すると推定されているが、それよりもはるかに重大なのは、10億人がアメリカの生活様式で暮らしている世界から、20億ないし30億人がアメリカの生活様式で暮らしているか、あるいはそういう生活をしたいと望んでいる世界へと移り変わっていることだ。(上・P.84)
そして、そうした人々の増加によって巨大なエネルギーが消費されているということ。そのエネルギーは残念ながらクリーンなものではないということ。
現在の世界のなにが問題なのか、についてまずは考えていく。そのキーワードが「エネルギーの供給と需要」「石油独裁主義」「気候変動」「エネルギー貧困」「生物多用性の喪失」。
近年の原油価格の高騰、それに伴って穀物市場が食料からエネルギーへと目的を移す場面が増えた結果を受けての穀物価格の高騰。あとは芋づる式にあらゆるモノの価格上昇。果ては金融危機を経ての世界的な不況。
私はつぎのような仮説をともなう石油政治の第一法則を提案する。石油資源が豊富な産油国では、原油価格と自由化の度合いが、逆の動きを示している。すなわち、世界の原油価格が上昇すると、言論の自由、報道の自由、自由で公正な選挙、集会の自由、政府の透明性、司法の独立、法の支配、独立した政党やNGOの結成が蝕まれる。こうしたマイナスの傾向は、原油価格が上昇すると、石油主義者の指導者が国際社会の評判を意に介さなくなることによって強まる。国内治安部隊を増強し、政敵を買収し、票や国民の支援を金で買い、国際的な規範に抵抗するのに使える余分な金が増えるからだ。石油政治の第一法則によれば、逆に原油価格が下降したときには、自由化の度合いが速まる。石油主義国は、より透明な政治と社会を志向せざるをえなくなる。政敵の意見に敏感になり、幅広い外国との交流にも開放的になり、国民が競争するための能力を最大限に発揮できるように、法律・教育体系の構築に本腰を入れる。新規の起業をうながし、海外からの投資を引き込む。さらに、原油価格が下降すると、石油主義の指導者たちは、当然ながら外部の意見に敏感になる。(上・P.149)
確かにドバイなどの様子を見る限りにおいて(あくまでもテレビでではあるけれど)、それは間違いなく存在するのだろうなと思わざるを得ない。中東で実際に働いているのは外国からやってきた労働者で、地元の若者は金と時間をもてあまし、毎日ひたすら遊びほうけているだけ。それでも彼らには巨万の富があふれている。
そんななかで暮らしていたら、それはおかしくもなるだろうに。
ロスは、169カ国のデータをもとにしたその後の研究で、中東の女性が依然として教育をきちんと受けられず、労働力として実力以下の評価を受け、政治力を持たない理由を提示している。原因は石油だ。(上・P.156)
ウィルソンはいう。「私たちが自然界を破壊すればするほど、それを維持する負担は大きくなり、どんどん自分たちで工夫を凝らさなければならなくなる・・・だから、自分たちの手で操縦装置を操って、人間の生活に必要な物事をすべて動かせる--たとえば大気をこまかく管理できる--ような宇宙船に、地球を変えてしまう計画がないかぎり、生物圏の維持は、数百万の種が私たちをよろこんで何事もなく支えてくれていた、当初のあるべき姿に戻すのが賢明だ」(上・P.231)
たしかに、火力発電所中心のシステムは、当面、アフリカや南アジアではある程度必要だろう。グリーンな発電手段は、まだ大々的な規模では実現できない。しかし、いま電力を使えない16億人が、石炭、天然ガス、石油を燃料とする火力発電の送電システムに移行した場合、気候にあたえる影響や汚染はすさまじいものになる。世界の4分の3が化石燃料による火力発電の電気を使っているだけでも、これだけの気候変動を引き起こしているのだ。残る4分の1がそこに加わったらどうなるか? だから、クリーンで信頼できる安くて豊富な電気を、早急に用意しなければならない。太陽光発電や原子力発電のコストを下げ、そういったテクノロジーを世界の貧しい国が安心して使えるようにすれば、一つの問題(エネルギー貧困)を緩和し、もう一つの問題(気候変動と大気汚染)を阻止できる。(上・P.246)
バイオ燃料についてはどうか(中略) 私たちのエネルギー問題の大々的な解決策にはなりえないし、解決策にしようとしてはいけない。私たちの必要とする規模のパワーを提供できるのは、電気だけだ。ただ、ガソリンを燃料とする自動車から電気自動車に移行するあいだは、バイオ燃料がつなぎの解決策になりうる--ただし条件が4つある。(上・P.287)
昨年のガソリンの暫定税率をめぐる問題の時にも、与党のどなたかが言っていたが、確かにクリーンでない石油燃料の使用を減らすというのであれば、国内での税金を高く載せるという手法はあるともいえる。しかし、それは代替するものへの移行をも含めたものであるべきか。
その意味でいえば、テレビのデジタル化が進まないのもむべなるかなというところ。そもそもデジタル化で電波の有効利用とかいっているものの、どうしてもそうしなくてはならない理由が明確に見えてこないのはおそらくテレビ局などにしても同じなのではないだろうか。
もしもそれでも変更をというのであれば、既存のアナログテレビの購入費用は高くして、デジタルテレビの価格をぐっと安くするような相対的な選択基準を業界全体に課すような政策が行われるべきなのだろうけれど、それがないので進まない。本当に切り替えなくてはならないのであれば、助成程度でなくて総合的な施策が必要であろうに。
「経済を生かし、成長させるには、消費する必要があります。しかし、私たちは消費を増やすとともに、保護も増やすことができます。自然の状態を護っていかなければならない場所や資源を見分ける必要があります--それを中心に成長します」無駄の多い営み--必要性も計画性もなく、無知もしくは習慣でやっているようなこと--も見きわめて、やめていかなければならない。(上・P.293)
「環境問題に関しては、無関心よりも偽善的なほうがずっといい」--自分のやっていることがわかっていれば、正しい方向に向かっていれば、早まった勝利宣言をしなければ、そのほうがましだ。てっきり勝利を収めたと思い込んで、旗竿を地面に突き刺してしまうのが、いちばんまずい。最近の私たちはそんなふうなことをしている--グリーン・ブランド、グリーン・ブーム、グリーン・コンサートで問題を解決していると思ったら大間違いだ。それでは勝算はない。(上・P.323)
多くの人々にとってなにができるかといえば、正直たいしたことなどできないというのが本音で、だからこそ「小さなことでも、出来ることから」ということになるのだろうが、昨今のレジ袋を悪者にする風潮はどうかとも思う。もちろん無駄に使うことは避けるべきではあるし、削減そのものが悪いことではない。そしてそれはレジ袋に限らない(そこが大事なはずなのに、レジ袋をいけにえにすることで他を除外しているきらいがある)。
本当に悪だというのであれば、すっぱりと国が禁止を打ち立ててしまえばよい。それが環境のための必須条件なのだというのであれば、否応なく従うしかない。けれどももっと本質的なところがうやむやにされていて、単にいけにえにされている現状ではそこまで踏み切る度胸まではない。現実問題として、すべての人が常に買い物袋を持ち歩くということは期待できないわけで、それであれば有料にするだのなんだのとマイナスイメージを作るよりも、まさしくリユースを促すのが手っ取り早い方策。
仮にレジ袋を二度使えば、総使用量は半減する(ごくおおざっぱな数字として)。実際にはよほど使用状況が悪くない限り、十回程度は使えることは経験済みだ。ブランド物の、高価で所有することに意義があるようなエコバックと名前のついた袋をこぞって買うよりも、よほど現実的な解だと思う。
小さなことの積み重ねももちろん必要なことではあるが、悲しいかなその程度のことでどうこうできる問題ではもはやないという認識をこそ、本書などを通じて知るべき。(もっとも本書でもレジ袋はなくすべきだという主張をとっているようではあるが)
だが、いまや私たちはエネルギー・インターネット--頭のいい高圧送電線網--に移行しているから、電力会社は風が吹くときや太陽が照っているときに合わせて、家庭の冷蔵庫を動かし、サーモスタットを調整できる。需要と供給を一致させることができる。そのため、再生可能エネルギー源を、より低いコストで使えるようになった。雲が太陽をさえぎり、風がやんだときには、頭のいい高圧送電線網が、価格を上げることで需要を減らす(家庭のSBBが、いまは選択は控えようと判断する)か、あるいは家の温度設定を変える。太陽が明るく輝いていて、風がうなりをあげているときには、電力会社は家庭の乾燥機を最低価格で作動させる。つまり、高圧送電線網の知能と、エネルギー効率の向上と、再生可能エネルギーの利用のあいだには、直接の相関関係がある。(下・P.30)
ここまで述べてきたエネルギー・インターネットを構築することができるとすれば、エネルギー需要の曲線の頂上(ピーク)と谷間をならすことで、エネルギー効率を高め、風力や太陽光などの再生可能エネルギーの利用を増やして、いまよりも少ない発電所で、もっと成長できる。(下・P.44)
実はこのあたりについてはどうにも著者の意図が見えない。電気代の高い時には冷蔵庫の電源を落としてしまうのか? 落とさないまでも庫内の温度が上がってきても、電気代が今は高いからとそのまま放置するというのだろうか? 電気代の安いときだけ冷やして、そのほかはなにもしないという使い方ができる製品であるとは思えない。
乾燥機もまたしかり。晴天で風もあってよく乾きそうな天気というのに、乾燥機を作動させるのはむしろ無駄であろうに。単純に表に干せば済む話だ。洗濯機が一日のなかの電気代の安い時間にというのはわからないではない。もっともそうしてすべての家庭の洗濯機が同じ時間に一気に動きだしたら、それはそれで電気使用量が集中して、結果的に電気代が高くならないかなどとも思ったり。
また、需要曲線をならすというのだが、使い方を見直すことでピークをいくらか減らすことはできるだろうが、だからといって発電能力がピークよりも低い平均値で済むという話ではない。ピーク需要をまかなうために必要な発電所の数に対して、ピークはたいしてかわらないが、いくらか全体をならして使う利口なシステムなので発電所の数を減らせるという話にはならないはず。ならそうがならすまいが、そこはかわらない。それとも、なにか読み違いをしているのだろうか。
もちろん、この話は将来を予想した物語として書かれた部分なので、そこまで言うこともないのかもしれないけれど。
ヤマニがOPECで仲間に語ったのは、つぎのような言葉だったと伝えられている。「きみたち、忘れてはいかんよ。石器時代が終わったのは、石がなくなったからではない」最初は青銅、つぎは鉄というぐあいに、代わりになるツールを人間が発見したから、石器時代は終わった。石油消費国が本腰を入れて再生可能エネルギーの大規模生産に取り組むか、エネルギー効率が幾何級数的に改善されれば、数百万バレルの石油が埋蔵されたままでも石器時代が終わるはずだということを、ヤマニは見抜いていた。(下・P.60)
2006年、私たちの家族がペルーの雨林を旅したとき、ギルバートという原地のすばらしいガイドを得た。ギルバートはつねに先頭に立った。電話も双眼鏡も持っていない。iPodはおろか、ラジオも持たない。一度に10の作業をやろうとする”いつでも注意を分散”という現代の疾病に冒されていない。まったくその逆だ。ギルバートは、つねに周囲で起きていることだけに注意を払っていた。雨林のなかで、虫の音、鳥のさえずり、うなり声、枝の折れる音をすべて聞き取り、私たちの足をとめさせて、どんな虫か、鳥か、動物かをすぐに教えてくれた。クモの巣すら見落とさないような視力の持ち主で、蝶、オオハシ、シロアリの列を見つけた。ワールド・ワイド・ウェブとはまったく無縁だが、周囲の生命の驚異的な自然の織物(ウェブ)とは完全につながっていた。(下・P.158)#一般に「原地」は「現地」だろうかと思うのだが?
生物の多様性と同時に、環境の多様性もまた星にとって社会にとって重要なこと。
かつて欧米がやってきたように、いま成長し、あとで汚染をなくすという順序でやる余裕は、中国にはない。中国人の多くは、不公平だと思うはずだ。だから、地球温暖化は、欧米が中国の成長を鈍化させるための”陰謀”だと思っている中国人は少なくない。中国の工業の竜が炎や煙を吐きはじめるよりもずっと前に、欧米の工業国家は大量のCO2を無頓着に大気に吐きだしていたのだから、不公平にはちがいない。ましていま、欧米はもっとも汚い工業を中国に移している。だが、母なる自然は、そもそも公平ではないのだ。母なる自然は、自然科学とごまかしようのない数学しか知らない。中国が、いま成長し、あとできれいにしようとしたら、予想を絶する規模と速さの成長によって、環境が取り返しのつかない破壊をこうむるだろう。(下・P.198)
第一の最大の原因は、汚い燃料システムの旧来の産業だ。この産業は、自分たちの縄張りを護り、アメリカのエネルギー・インフラ支配を維持しようとしている。経営幹部や従業員やその企業を支援する政治家が、雇用や地域社会を護ろうとするのは、まだましなほうだ。最悪の場合には、貪欲な企業が、利益の母体を護ろうとして、タバコのように社会や地球に害があるとわかっている製品でも製造しつづける。いずれにせよ、エネルギー政策決定にかかわりがあるとき、この連中はイカサマを仕掛ける。事実をゆがめ、数多くの新聞やテレビに消費者を惑わす広告を載せ、政治家を買収する--すべては汚い燃料システムを維持するためだ。自動車産業、石炭産業、まだ目が覚めていない特定の電力会社、石油・天然ガス会社などの”エネルギー産業複合体”から出た金は、これまでずっと、私たちが現況についてのエコロジカルな真実をひろめる能力を弱め、エネルギー・インターネットを設置するのに必要な頭のいい政策を私たちが(大規模に)企画する能力を損ねてきた。(下・P.242)
いわゆる発展途上国はこぞって「先進国がまずやるべきで、我々はもう少し放っておいてくれ」という論調が強いけれど、もはやそういう段階ではないということをもっともっと共通の理解に変えていく必要がある。
同時に、政治や企業にとってももっと本質的な危機感を認識する必要がある。
そのためにも著者が訴えるのは、「これがビジネスチャンスなのだ」ということかと。本来、そんなふうに考えて行動するのはこの問題に関しては不謹慎なようにも思えるが、そうでもしなければ行動が起こせない状況にあるという現実への答えが「グリーンはビジネスチャンス」ということかと。
この演説を聞いたり読んだりするたびに、私はちょっとひやっとする--ことに、「なにをいうかではなく、なにをやるかがおまえを決める」というところに。スズキの演説の魅力、力、美徳は、真のグリーン革命がなんであるかを手厳しく思い出させることにある。(下・P.274)
むしろその後段の、「みなさんのやっていることが、私を悲しませています。大人は子供に愛しているよといいますが、ほんとうですか。言葉どおりのことをやっていただきたいと思います。」のほうが、ずしりと重みをもっているように思う。
だから、指導者を見つけて鍛えることが、きわめて重要なのだ。人種差別を終わらせるとか、世界戦争を戦うといったような、大きな難題に直面するときはいつでも、リーダーシップの質が趨勢を決する重要な要素になる場合が多い。エネルギー気候紀元の場合には、問題点をはっきりと示し、それを無視すれば恐ろしい脅威がもたらされ、それに取り組めば大きなビジネスチャンスがもたらされることを、人々に納得させられるような指導者が必要とされる。また、指導者たちは、この問題への対処が重要であるというのを理解しているだけではなく、システムをまとめられる大きな展望と権威をみなぎらせていなければならない。(下・P.288)
アメリカはオバマ大統領がその方向に向かおうとしているかに見える。しかして日本はどうなのか? なんともお寒い状況が連綿と続けられていると思っているのは、国民よりもむしろ政治家なのではないかな。
ソーラーパネルの設置補助などにしても、著者はそんな日本を評価しているようだけれども、現実のところとしては行政まかせのことが多いためにバラバラの対応で、十分に機能しているとはいいがたい面もある。どうせならすべての家屋に国が設置する、くらいの気概が欲しいのではないかとも思ってしまうが、それは望むべくもない。
私がいう”バナナ共和国”は、1960年代の中南米の独裁主義国のことではない。公益事業関係の専門家が使う言葉に似せてこしらえた造語だ。NIMBY(うちの裏庭だけはだめだ ノット・イン・マイ・バックヤード)という言葉を聞いたことがあるだろう。「風力発電機はおおいに結構だが、うちの裏庭にはあってほしくない」といったようなときに使う。BANANAはその変種だ。”なにかの近くのどこかにはなにも建てるな ビルド・アブソルートリー・ナッシング・エニウェア・ニア・エニシング”を意味している。(下・P.289)
なにも国民レベルのことではなく、政治家にしても自分のお膝元にはそうしたものは作るなということで、結果遠く離れた田舎の山奥に作って満足しているということも同じことなのだと思う。
ニューモなどもよい例では。地方の小さな村などでは財政が厳しい。調査をやらせてくれれば大金をあげますよといって地層処分候補地を募集している。安全に処分するのである。国会議事堂の地下にでも埋めたらどうだろう。議員宿舎を新築せずに地下に埋めたらどうだろう。
一度でもなにかをやむなく受け入れたら、次からつぎへとそうしたものを送り込まれる。生活している以上避けられない問題なのは誰にでもわかる。であれば、等しく負担するということも必要なのではないかなあ。
本書で書かれていることの多くは、まず地球の現状がどうなっているのかという分析。これにはきっと多くの解釈があるであろうから、取材した数だけ異なる見解というものがあるかもしれない。だからこそ同様な多数の意見をきちんと見聞きして判断できるようになりたい。
ではどうするのかという手法についても同様で。著者が提案することが唯一無二の方策であるかどうかはわからない。少なくともアメリカは類似の方向へ走り出しそうだ。アメリカ人がアメリカでアメリカ人に向けて書かれた本なので、「アメリカがやらずに誰がやる」というメッセージが非常に強い。けれども、ことこの環境をとりまく問題だけは、もはやアメリカ人がなどという枠を忘れて地球的な視点で考える必要があって、国や人種の枠を超えた取り組みや発想が求められるのではないかなという思いもする。
計画されているスマートグリッドに致命的な脆弱性があると、このごろニュースにもなっていたけれど、これほどまでに大掛かりなシステムを構築し、それを将来的な資産にしようと考えているわけであるから、この方式だけにとらわれずに遠い将来をきちんと見据えた(世界的な)取り組みこそが求められるのではないかと。著者の提案するエネルギー・インターネットはそのひとつのアイデアにすぎないという考えもまた必要なのではないかなと。
究極をいえば、やはり「人間が多すぎる」につきるのだろうとは思う。諸悪の根源は、わたしたち人間だ。
著者の描く未来は、やや絵空事に思えないこともないが、近年の地球の姿を理解するうえで十分に価値ある一冊であり、思索に寄与する一冊であるのは間違いない。
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