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生きるということ


431400181X生きるということ
エーリッヒ・フロム 佐野 哲郎


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生きるということ
エーリッヒ・フロム
佐野 哲郎 訳
紀伊国屋書店
1977年7月発行 @niftyBOOKSで

 内容をもっとも端的に表しているのは、原題の「TO HAVE OR TO BE?」であるけれど、「生きるということ」とした邦題も一般的すぎるかもしれないが、わかりやすく手にとりやすいものだったのは間違いのないところ。原題を直訳した題をつけたところで「持つこととあること」では、一体なんの本だかわかりにくいだろうし、なんだか小難しそうでと、敬遠する人も多かったかもしれない。その意味で、実になじみやすい邦題があってこそ、読み継がれているのでしょう。

 買い物に代表される所有するという意識が「持つこと」であり、物質ではなく精神的なものに価値を見出したり喜びを持てることが「あること」といったところか。もちろん所有というのは物質に限らず、権力や知識など形のあるなしを問わずあらゆるもの。

 持つことには消費することもあるのだから、絶対的にそれが悪であるということはできない。生活をしていくうえで食料にせよ、家具にせよ、あらゆる生活物資は必要ではある。それを作ることで生活している人もいるわけで、最低限の消費という行為は当然なされるべきもの。ただ、持ちすぎること、あるいは持つことに執着するようになると、それはあらたな弊害を生むのだということは理解しなくてはなりません。

 シンプルな生活は、殺風景な生活とは別のはずですが、とかく所有したいという欲望に負けてしまうのも事実。掃除するにしたって、ずっと簡単にできるし、そうなれば掃除も嫌にはなりません。ものがあふれているとそれだけで嫌になってしまう。

 現代はモノがあふれ、モノを買いましょうという空気にあふれた社会。自らのありかたをきちんと考え、選択して持つことというのも大切なのでは。

持つ人物が持っているものにたよるのに対して、ある人物はあるという事実、生きているという事実、そして抑制を捨てて反応する勇気がありさえすれば、何か新しいものが生まれるという事実にたよる。彼らは持っているものに対する不安な気がかりのために自分を押し殺すことがないので、会話の際には十全に活気づく。
平等が意味しなければならないのは、物のひとかけらに至るまでの量的な平等ではなく、集団の違いが生活経験の違いとなるほどの所得の差異を生じない、ということなのである。
生きている人間が数に還元されてしまったら、真の官僚はまったくの残虐行為を犯すことができる。

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