« 2004年7月 | トップページ | 2004年9月 »

固有名詞には慎重に

 ある機関誌に安曇野の観光記事が載っていました。冒頭、その風景を描写した部分で山の名前にふりがながついていました。こうした固有名詞は独特の読み方をするばあいもあるので、ありがたい配慮です。がしかし、そのふりがなを間違えてしまったのでは、かえって逆効果にもなりかねません。それは、こんなことも知らないのかではなく、なぜきちんと確認しようとしなかったのか、です。

 燕岳(つばめだけ)

 とふってありました。正しくは「つばくろだけ」ですね。

 あえて擁護すれば、比較的簡単な(といって書けといわれても書けそうにありませんが)、そして普通に単語として読むことのできる字であったがためにまったく疑わなかった、というところでしょうか。むしろなんと読んでいいのかまったく分からない字であれば、調べることもあったのでしょう。

 とかく地名・人名は難しいもの。ことに人名などは、どうやっても読めないという当て字が許されますから難解です。地名にしても地元にいるとそういうものだと思っているのであまり感じないものですが、実際には難読地名は多いものです。

 「麻績」「柵」「小谷」「白馬」

 思いついたものを少しあげてみましたが、安曇野もそうですね。もっともかなり有名なので知っている人もまた多いでしょうが。最後の「白馬」などは、町の名前は「はくば」ですが、山の名前は「しろうま」ですから。

 もちろん誰しもはじめはしりません。だからこそ固有名詞にかんしては特に慎重になりたいものです。(かくいうわたしもあまり自信がありませんが・・・)

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

一堂に期す?

 佐久地方の酒蔵が集まってそれぞれの酒を試飲してもらったりという催しが今年もあるらしい。きょうの新聞に広告がでていた。

 「自慢の銘柄・名醸を一堂に期して挑みます。

 と、あるのだが首を傾げてしまうのはわたしだけだろうか。たしか昨年も同じコピーだったから流用しただけで、誰も何も考えてないのでしょう。

 「期する」とは期待する、前もって深く決意する、必ず実現することを約束する、といった意味。
 「一堂」はひとつの部屋・建物、同じ場所、といった意味。

 やはり、「一堂に会して挑みます」でよいのでは。もっとも、挑みますというのもやや力みすぎに感じられますが(絶対に金メダルが取れると期待されながらオリンピックに臨むといった場合ならば、挑んでもらっても違和感はないですが。「一堂に会してお待ちしております」くらいがちょうどよいのでは?)。
 それとも、

 一堂に(会して)、期して挑みます!

 という決意の表れなんでしょうか。いやいやそんな力まなくても、て思いませんか?

 各社の名前入りで何度か掲載されるのですから、どこかで指摘するなんてことは・・・、ないんでしょうねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

KOTO が 1 円

 Vodafone の KOTO という端末が最近新規 1 円になっています。つい 5 月に発売になったばかりだというのに。まあ当然といえば当然です。どう見てもあのデザインは美しくありませんから。間違っても持ちたくないよなあ、というふうにしか見えないのです。少なくともわたしには。実際、価格の急落は販売店がはやいとこさばいてしまいたい、という気持ちの表れととらえるのが筋でしょう。

 確かに他社にくらべて、端末の種類は少ない部類でしょう。というかドコモにくらべてというべきでしょうか。奇をてらったデザインにしたかったのでしょうが、奇と奇異とはまさしく異なるものだという好例かもしれません。

 それよりなにより、頻繁にメールが遅延したり(平気で半日とか)、そんなときに通話しようとしてもまったくつながらない、というのではなんのための電話なんだか、なのですね。迷惑メールの対策を厳しくしているからといいわけしているようですが、通話すらできずになんの対策かと。

 ドコモからくる新社長がこうした基本的なサービスの抜本的な改善をしなければ、もはや先行きはないといっても過言ではないかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

お盆の膳

 ひさしぶりにひとりで飲みにいった。なんとなく焼酎に統一と思ったので、そればかりを飲んできた。

「晴耕雨読」(米)
「富乃宝山」(芋)
「瑞泉」(泡盛)
「朝日」(黒糖)
「純黒」(?)

 宝山はたしかにおいしい。でも、朝日の黒糖の甘さの残る香りはなんともよかった。
 つまみはジャガバタ、鯒(こち)の昆布〆、ゴーヤチャンプルー、鯛カマ。おまけの茗荷のシラス合えとガトーショコラの耳(^^;なんとも不思議なとりあわせ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

欲しいものは本当に買えるのか

 買い物好きな人がいる。あまり執着のない人がいる。ブランド好き。デザイン重視。安ければいい。高いほどよい。人気がある。人気がないから。などなどモノ(あるいは買い物)に対する反応はさまざま。ちまたにはモノがあふれているし、競合する店も多く、理由はともかく、欲しいモノをその時点で可能な安さで買っている。というのは正しいだろうか?
 先日知人が洗濯機の購入を考えて、かねて狙っていたモノが売り出しになっていたので出かけてみた。つい数ヶ月前までに比べて2万円弱の値引きでもあり、購入しようとしたら店員がおもむろに貼り付けてあったポップなどをはがし始めた。「え、これなんですか?」との問いに「そうです。展示品だけです」「在庫無いんですか?」「この商品はメーカーでもすでに生産終了ですので、これだけです」「そんなこと一言もいわなかったじゃないですか」「でも、一度も洗濯はしてませんから」「それならもう少し負けるってもんでしょう」「それはできません」
 むろん展示品でも傷みや故障がなければ、かまわないともいえるのだが、なんだか騙されたようなきがして、他所を見ることにしたそうだ。
 ところが、後日そのメーカーに直接問い合わせてみると、「在庫はございます。生産も継続しております。今のところ生産を終了する予定はございません」との返事。
 広告で「処分品」とか「現品限り」と表示されているのであれば、それは商売の方針として「この機種はこれ以降は扱いません」ということで、それはそれであろう。けれどもそうしたこともないのであれば、やはり取り寄せるべきではないのだろうか。というか広告にはそう明記されている。そして、そうでなければわたしたちはメーカーから直接に購入することはできないのだから。
 売る側の論理と、買う側の論理がすれ違うのは当然とはいえ、詐欺まがいの方法というのはいかがなものか。しかもその店のネットショップでは取り寄せて販売しているというのに。
 「モノに執着するな」?なるほどそれは真理だ。フロムのいうとおりに生活できたらどんなにすばらしいだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

マイリスト

を試してみたが、どうもあまりいい感じではない。無料にしてもこれはどうなの?て感じ。一応残してはみたが・・・

| | コメント (4) | トラックバック (0)
|

流星群

 新聞のテレビ欄を見ていて気が付いた。ちょうどペルセウス座流星群の極大日が昨夜あたりだった。ことしは月齢もちょうどよく月のあかりに影響をあまりうけないので観測にはよさそうだ。とはいえ雲も多かったので、このあたりではどうだったろう。観測したのははるか昔。近年では星にかんしてもかつてのような関心はないので、すっかり忘れていた。もっとも昨今の明るい夜空ではあまり多くを観測することは望めないが、それでも比較的流れ星を見やすいというだけでも価値があるかもしれない。
 先日でかけた原村の星祭はあいにくの雨。昨年は火星の接近もあり、雲間から時折のぞく天体を望むことができたが、やはり曇りがちであった。それでも白鳥座の網状星雲を見せてもらったら、その鮮やかな色合いと網状の様子が眼視できたことに感動した。写真でしか無理だと思っていたのだが、見事だった。
 自作の望遠鏡もしまいこんだまま。もっとも使うにしても架台に手を入れなければ少々不便だし、さてさて。やはり手軽に双眼鏡だろうねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

食欲を誘う?

 ローカルな話だけれど、SBC信越放送で放送された「SBCスペシャル」で夏の食べ物を特集していた。暑い夏には食欲もおとろえがちだが、そんなときこそしっかり食べられるこんな料理はどうですか?といった感じの番組ではあった。
 その中で何度となく連呼されたのが「食欲を誘いますねえ」。だれか注意する偉い人はいないのだろうか。いやいないからこそまかりとおっているのだな。「食欲」は「そそる」であって、誘うものではない。それともわたしの感覚こそがまちがっているのだろうか。きっと語感から「そそる」→「そそう」→「さそう」と勘違いしているのだろうが、昨今のアナウンサーの質の低さをまたも露呈してしまった。もっとも期待しているわけではないのだけれどね、NHKにしてからがそうだから。
 先日はテロップで、「タクラマカン沙漠」を「タクマラカン沙漠」とやっていたっけ。まあ言いにくい言葉だからともいえるが、きちんと確認作業をすればわかることなのだがなあ。かなしいことぢゃ。

| | コメント (2)
|

螢日和 その3

 二週間後の日曜日、ぼくはもう一度辰野を訪れた。あの日彼女がいなくなってしまったことが気になっていたのだ。本当ならもっと早くに来るべきだったのだが、都合がつかずに遅くなってしまった。彼女が渡してくれたメモに電話番号も書いてあったが、なんとなくためらわれた。特に理由があったわけではないが、予感のようなものがあった。そこで突然ではあるが直接訪ねてみることにした。
 梅雨の晴れ間で、やけに蒸し暑い日だった。ぼくは手土産にと、普段買ったことのない菓子折りなどを手にして、彼女の書いた住所をたどった。
 あちこちで道を尋ねながら着いた彼女の家は、町のはずれに近い静かなところだった。家の前まで来て、ぼくは少し迷っていた。本当にここが彼女の家なんだろうか。初対面の男に対して本当の住所や電話番号を教えるとは、今もって信じられなかった。しかし、ここまで来た以上迷っていても始まらないのも事実だった。ぼくは大きく息をしてから、チャイムを鳴らした。
 玄関のドアを開けたのは母親らしい女性だった。ぼくは失礼ながらこちらに高校生くらいの娘さんがいますか、と尋ねた。
 「ええ……」
 少し戸惑ったような答だった。
 「いえ、押売りとか、何かの勧誘とかではないんです。実は螢祭りのときに娘さんに案内をしてもらったのですが、気がつくともう帰ってしまったようで、お礼もできなかったものですから……」
 「娘が、ですか」
 「ええ」
 母親は不思議そうにぼくを見ていた。やはり住所がでたらめだったのだろうか。ぼくは帰るべきかどうかしばらく思案してから、やはり名前は聞いておくべきだったと後悔した。
 それでも顔を見れば間違いかどうかは分かるはずだ。ぼくは事情を説明してから、娘さんに会わせてもらえないかと頼んでみた。
 母親はしばらく考えるようにしていたが、やがてぼくを奥まった一室へと案内してくれた。しかしそこには誰もいなかった。あるのは仏壇と額にいれた写真だけだった。
 仏壇?
 ぼくは額の写真を見ていった。古い写真が並んでいるその横にあったのは、まぎれもなく彼女の写真だった。
 「そんな……」
 ぼくの表情を見てとった母親は、彼女の死の一部始終をぼくに話してくれた。
 初めて彼女に会った日の一週間前、彼女は友達に会うために松本へ行った。残念ながら、友達の都合が悪くなって会うことはできなかった。その帰りに彼女は交通事故にあった。病院に収容され手当を受けたがついに意識が戻ることもなく二週間前の夜、息を引き取った。ちょうど彼女の案内で螢を見た日だった。では、あの日の彼女はいったい……。
 「あの子は螢がとても好きでした。だから、どうしても見たかったんでしょう」
 母親は信じられないけれど、と前置きしてそういった。
 ぼくはありきたりのお悔やみの言葉を残して彼女の家を去ると、駅への道を歩いた。ぼくが出会ったのが彼女の魂なのか何なのかは別として、彼女に会ったことだけは確かだった。そしてきっと彼女の姿はぼくにしか見えなかったのではないだろうか。あの時ぼくが彼女を見つけなかったとしたら、ほかの誰かが彼女を見つけたのだろうか。それともぼくが松本駅に降りたことからしてなにか縁があったのだろうか。あらゆるなぜ、もしもがぼくの中を巡っていた。
 けれども、あれこれ考えてみたところで何が分かるということではなかった。事実は事実であり、たとえそれがありえないことであっても、受けとめるしかないのだ。
 ふと、別れ際の母親の言葉をぼくは思い出していた。
 (螢を一緒に見てくれてありがとうございました)
 そうだ、彼女も最後にいっていた。消え入りそうな小さな声で、ありがとう、と。ぼくははっきりと覚えていた。なぜだか、その言葉がとても懐かしく感じられた。
 やがて駅に着き、ぼくは夕闇に包まれようとしているホームから列車に乗った。乗客は少なかった。ぼくは窓際の席に腰掛けると、ぼんやりと外を見ていた。
 ふと黄色い小さな明りが舞ったように思った。
 それは、次第に集まり三つ四つの乱舞になった。
 列車は静かに動き出した。

1.4.01-3[EOF]

| | コメント (1)
|

« 2004年7月 | トップページ | 2004年9月 »