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螢日和 その2

 「コーヒーふたつください」
 「は?」
 「コーヒーふたつです」
 「はい……」
 ぼくらは駅の近くの喫茶店に入った。彼女はあれこれ考えていたが、つまりはコーヒーを選んだ。
 小ぶりでシンプルなカップに注がれたコーヒーは程なくテーブルに置かれた。
 「……そう。でもなにしにきたの。辰野なんて特になにもないのに」
 ぼくは今日のいきさつを話していた。
 「螢を見に来たんだ。名所でしょ」
 「知ってるの!螢祭り」
 「……うん」
 「でも、まだ早いわよ。螢祭りは来週からだし、今年は遅いみたいなの、螢」
 螢の話をする彼女の目は、夕空を見つめていたとき以上に輝いていた。
 ひたむきなキラキラしたひとみは、しかしまだ少女の幼さも確かに残していた。
 「ねえ、来週また来るんでしょ。あたし案内してあげる」
 「いや、でも……」
 「いいの、気にしないで。とっときの場所知ってるんだ。あたしの秘密の場所」
 それも悪くないなと思った。
 「でも、来週は天気も崩れそうだし、螢がいなかったら残念だしね」
 「じゃ、電話番号教えて。前の日にでも知らせるから」
 彼女の出したメモ用紙に、ぼくは番号を書いて渡した。
 メモを受け取った彼女はそれをしまうと、メモ用紙になにかを書き出した。そしてそれをぼくに差し出した。
 「これ、あたしの住所と電話番号。取っといて」
 どうして?
 と、いおうと思ったが、ぼくの口からその言葉はもれず、ぼくの右手はそのメモ用紙を受け取っていた。
 「じゃ、来週。螢、楽しみにしてるから」
 そういうと、彼女はまた大事そうにギターケースを抱えると店を出ていった。
 ぼくはなにか狐にでもつままれたようにドアを見つめていた。
 テーブルにはまだ手をつけていない彼女のカップがあった。そして、ぼくもようやくコーヒーに手をつけ、ぼんやりと口に運んだ。
 少し冷めたそのコーヒーは妙に苦かった。

 次の土曜日、ぼくは再び辰野町へ足を運んだ。曇ってはいたが雨は降っていない。まずまずの天気だった。
 昨晩の彼女からの電話によれば、まだ数は少ないがようやく螢も姿を見せ出したということだった。電話の後ぼくは彼女の名前を知らないことに気づいた。考えてみるとぼくも教えていなかった。
 おかしな話だ。名前も知らないもの同志が電話をし、こうして待ち合わせをしている。
 彼女にあったら名前を聞かなけりゃ。ぼくは列車の中でそう考えていた。
 改札で迎えてくれた彼女の案内で、ぼくは彼女のいう秘密の場所に案内してもらった。
 たんぼ中のあぜみちを抜けていくと、小川の水の音が静かにしている。
 「ねえ、君、名前は?」
 「名前?」
 「ぼくも君も、おたがい名前もしらないだろ。何か変なものじゃないかい」
 「そんなことないわよ。名前なんて何でもいいじゃない。あたしがあたしであり、お兄さんがお兄さんでありさえすれば。……もう少しよ」
 ぼくは、それきりもう名前のことはいわなかった。まあ、いい。彼女のいうのも一理だ。
 螢は雨が降っても風が吹いても葉陰で息を殺してしまう。今日のような天気は、この梅雨時にあまりないが、まさに螢日和といえる天気だった。
 螢は幼虫の頃は肉食で、きれいな水にしか住まないカワニナという小さな貝を食べているのに、成虫になると葉の先についた露しか飲まない。そうしてわずか十日前後の成虫としての命を終えていく。
 螢は呼吸をするときに光るのではなく、呼吸の間に光るのだということ。
 螢は……
 少女の話は尽きることをしらないかのようだった。
 目的の場所につくと彼女はぼくに目を閉じるようにいった。ぼくが目を閉じると彼女はぼくの手をひいて案内した。ありがちな演出ではあったが、ぼくは素直にそれに従うことにした。やがて立ち止まると、ぼくの体の向きを直すと彼女は静かにいった。
 「もういいよ」
 いよいよ螢の登場。
 ぼくは静かに目を開けた。そして目にした様は、かつて見た螢の姿のどれとも違っていた。
 始めこそちらほらと漂っていた螢が、いつのまにか無数の光の舞となってさまよう。決して早くなく遅くなく、あたりを散策するように、人が歩くように螢は舞う。
 あのほのかな頼りなげな小さな灯りが、とてもあたたかく、やさしく感じられてくる。
 きれいだ。
 言葉にはならなかった。
 もう忘れかけていた感動がよみがえっていた。
 彼女はぼくの左隣に腰を降ろしていた。ぼくも静かに腰を降ろした。草に覆われた地面は少しひんやりしていた。
 「きれいでしょ」
 彼女は螢を見つめながらつぶやくようにいった。
 「本当だね。初めてだよ。こんなのを見るのは……」
 「お祭りで見に行く松尾峡は人で一杯だし、ぞろぞろと並んで行かなきゃならないの。ここなら静かにゆっくり見れるでしょ」
 「ここは君が見つけたの」
 「そう。でも誰にも教えてないの」
 彼女は少し茶目っけをだしてそういった。
 「どうして?」
 「本当に大切なものは有名にしちゃいけないのよ。だって、人がたくさん来ると、どうやってそれをお金にしようかって考えるでしょ。来る人は来る人でそこがどんなところかなんて関係ないから、荒したり汚したりするし。そうして観光のための自然をその場所にだけわざわざ作ったり……。そんなのは本当に必要なことじゃないもの」
 確かに彼女のいうことにも一理あるなと、ぼくは思った。
 「でも、そのおかげで螢を見られる人もいるんじゃないかい」
 「でも、全部がそうでなきゃいけないって事もないでしょ」
 そう、その通りだ。観光地になってしまったがために、その美しさを失ってしまうことはよくある。それに、ぼく個人としてはこういう静かなところの方が好きだった。
 「この場所は内緒にしてね。ふたりのひみつ」
 「そうしよう。でもそのうち誰かが見つけてしまうかもしれないけどね」
 「大丈夫よ」
 彼女は不思議と自信ありげにそういうと、小さくありがとうといった。
 そのあとぼく達は黙って螢を見ていた。そうしてどれくらい時がたったろうか。気がつくとあたりに彼女の姿はなかった。
 ぼくはあたりを見回し小さな声で彼女を呼ぼうとしてやめた。名前も知らずに何と呼べばいいのか。
 しばらく付近を探してみたが彼女は見つからず、ぼくは駅へ向かって歩くことにした。ひと足早く駅で待っているかも知れない。そう思うことにした。
 先程まであれ程たくさん舞っていた螢が、いつのまにやらすっかり姿をひそめ、なにやらひっそりとした風が吹いていた。
 梅雨時の風は妙ななま暖かさと冷たさを持っている。
 真暗な道をぼくは歩いた。やがて駅に着き、あたりをくまなく探したぼくの前に彼女は現れなかった。しばし呆然として椅子に腰を降ろしていると、アナウンスが長野行きの最終を告げた。不安な気持ちを残したままぼくは長野へと帰った。

1.4.01-2

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