テレビは誰のためのものか
テレビは映像と音声とを流している。ラジオは音声だけだ。だからラジオでは状況の説明を具体的にする。まわりの風景であったり誤解しやすい言葉についても言い回しをかえたりしている。テレビであればそうしたことは映像として補完することができるので、アナウンサーはとかく説明不足になりがちだ。
テレビの気象情報のなかで、ある放送局ではこんなことがある。「警報・注意報はごらんのとおりです」との音声に、画面には「警報・注意報は現在でていません」と表示されている。
たしかにテレビであるのだから”見ればわかる”のだが、真にそうであるならばそれまでの解説「どこどこは晴れのち曇り、最高気温は32度の予報です」といった音声も無用ではないのか。
たとえばである。台風が近づいていて警報・注意報がこれでもかと発令されており、すべてを逐一読み上げることはできないというのであれば、「各地に大雨・洪水・強風の注意報がでています」くらいの言葉でもかまうまい。個々のものは悪いけど見てね、といってもそう悪いことではないだろう。
ところがそうではないのだ。先のふたつを比べてみても言葉数にたいした差はない。充分に言える内容であるにもかかわらず、見ればわかるでしょ、というのはいかがなものだろうか。
これはひとえにテレビは目の不自由な人は見ない、という考えなのではないか。見ないというと妙な表現だが、テレビはつけないというべきか。かりにその放送局がラジオ放送もやっていて、目の不自由な方はどうかラジオの方で詳しくやってますのでそちらをご利用ください。というのであれば、それはひとつの考えかもしれない。しかしそういうわけではないのだ。
実際、見るともなくテレビをつけているということはよくあることで、音声をきいて、「えっ?」と画面を見るということはこれまたよくあることなのだ。
悪くいってしまえば、目の不自由な人はテレビ見ないでよね。というメッセージに聞こえるわけだ。もちろん、そうした意図などないのだろうが、放送というものの根幹を考えていないのではないかと思わざるをえない。
ラジオでは音声でしか伝えられなかったことがらを、テレビでは映像でも伝えることができるということを、プラスにしてこそ放送の意義があると思うのだが。
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